Nameless Birds
番外 天敵   -Stardust-

番外 天敵の前編七
番外 天敵の前編五
作品



前編六/七

「…動かないで待ってるよう言ったのに。それで他の人は…え?先に行っちゃったんですか?仕方ない人達だなあ、全く…」
  労わりや同情といった善意の脚色とは無縁の武士の御託が、当の病人を前にして、何故かいよいよ精彩を放って聞こえてくる。だが、紙一重で薄情な印象へは至らせない、声色の素地を成す爛漫さもまた、闇の中で際立ち、医者を道行の終着点へと後押しした。
「…やだなあ、お医者さんを呼びに行ってたんですよ、決まってるじゃありませんか…あ、御心配なく。こっちも心配してませんから。だってほら、後で何言われるか分からないじゃないですか。あの時、誰も何もしてくれなかった、とかって恨まれたりするのは嫌ですからね。一応、やるだけのコトはやっとかないと…!?あ、すみませんね、先生。この人、早速診て貰えますか?」
  武士は医者の到着に気付くと、軽快な憎まれ口を喉奥に仕舞い収め、腰を上げた。
  橋柱を支える石組みに身を寄せ、腹を抱え蹲(うずくま)っている人影 ―― こちらも武士か ―― に医者を引き合わせるべく、場所を空ける。
「急にお腹が痛いって苦しみ出して。まあ、大したことないとは思いますけどね」
「…」
  大したことないなら医者なんざ呼ぶな、と内心で毒づきながら、医者は渋々男の側に屈み、一通り熱や脈を探りつつ、声を掛けた。が、余程に腹痛が酷いのか、男はうんうん唸って苦しむだけで、こちらの問い掛けに応じず、全く問診が成り立たない。
「…参ったな」
  頭上、堀端沿いに居並ぶ家々の懸行灯や、屋台の提灯の光が水面に落ち込むお陰で、橋下であっても手探りの暗さではないが、それでも顔色や他器官の状態を詳しく判別するには光量が乏しい。腹痛以外に目立った症状は無さそうであり、単なる食中りとしか見当の付けようがなかった。
  やれやれ、食い過ぎか、それとも夏魚にでも当たったか。
「…」
  診察に不向きな場の条件もさることながら、診察に非協力的な患者の態度が、止(とど)めとばかりに医者の精神を疲れ荒(すさ)ませる。例えば今、この無防備な患者の背を堀中へ蹴り落としたならば、さぞかし溜飲も下がるに違いない ―― との些細な誘惑が心中に頭を擡げる程、困憊はピークに達している。
  だが、その誘惑に傾けば、流石にあの武士も黙ってはいまい、と次の展開を測る正気も辛うじて残っているのは幸いだった。たかが一介の町医者風情を斬り捨てるなど造作もなかろうな、と朧(おぼろ)に視線を転換した先には、橋下を潜(くぐ)る船へ向かって笑顔で手を振る、呑気な武士の姿が在った。
「…」
  …馬鹿々々しい。
  不毛な葛藤は瞬時に霧散した。こんな男に斬られる末路というのも間が抜けているな、と脱力し、医者は萎えた気を奮い起こす反動で立ち上がると、患者でない方の武士へ向き直る。
「恐らく食中りとしか言えませんね。或いは心因性のものか。最近、何か変な物を口にしませんでしたか」
  医家の見解を模(かたど)ってはいるが、その実、内容は辻占の鎌掛けと同義の語を受け、
「変な物?さあ、こっちへ来てからは、私も他の連中も、この人と殆ど同じ物食べてる筈なんだけどなあ。特に何も…」
と、武士は首を傾げる。
「失礼ですが、どちらからいらしたんですか」
「京です。その前は江戸から」
「彼も?」
「ええ、多分」
「では、たまたま、この土地の水が合わなかったんですかね」
  次に医者の側へ首を傾げる番が回ると、武士は急に弾かれたように笑い出した。
「ははは…そんなデリケートなタマじゃありませんよ、この人は。それに、元々こっちの生まれの筈ですよ、確か」
  詳しい事は知りませんけどね、と余程ツボに嵌まったのか、長々と笑いを引き摺っている。医者にしてみれば、己の言動の何処に、この若者の腹の皮を捩じらすだけの可笑しみの要素が含まれていたのか、皆目見当が付かない。
  おいおい、侍が普通、こんな明け透けに笑うものかよ。医者は呆れつつも、早々に診立てを打ち切り、診療所へ引き揚げたい一心で、傍らの薬箱から腹薬を取り出そうとした。
「…?」
  と、ここで今一度、厄日の本領が発揮される。
  常備されている筈の腹薬が見当たらない。
「…」
  迂闊にも薬を渡す段になって、お目当ての調剤を切らしている事態に気付き、医者はそれと分からぬよう、無関係な薬の包みを改める所作を繰り返す。一息の間を稼ぎ、素早く代替策を検討しにかかった。
  ―― 薬箱には幾種かの生薬と薬匙、乳鉢が常備されており、この場で調合する手段がないでもないが、手元が暗過ぎるし、第一面倒だ。何より、金輪際顔を合わせる機会も縁も無いであろう彼等に、そこまで手を尽くす義理はない。一期一会の美徳なぞ糞食らえ、この惰弱そうな男が治ろうと治るまいと、俺の知ったことか ―― 咄嗟の非人道的な判断で、医者は持ち合わせの薬の中で一番多い風邪薬の包みを、表に墨書きで効能を記した外袋から一掴み抜き取り、付き添いの武士に差し出した。
  無論、医者としては『貧乏人の足元を見ない良心的な医者』のレッテルを自らに課すつもりは毛頭無かったが、結果、受けた掌から零れ落ちる程、余分な数の包みを手渡された武士の方は、流石に目を丸くした。
「え?こんなに沢山、いいんですか?さっきも言いましたけど、私はあまり持ち合わせが…」
「御代は結構、どうせ余り物ですから。ひとまず一包服用させて下さい。この薬は効きが早い、程無く症状は治まる筈です。動けるようになったら宿へ移って安静にしておくように」
  両名への偽薬の暗示効果を狙うあまり、医者の口調は勢い確信的、断定的になる。
「あ、はい、有難うございます。えーと、この場で飲ませろってことですよね、お水貰ってこなきゃ…」
「水なら目の前に腐るほど在るでしょう」
「え、この堀の水ですか?んー、よく分からないんですけど、飲んでも大丈夫なんですかね、お腹壊したりは…」
「もう壊してるんですから同じことです。この後、何日滞在されるか知りませんが、くれぐれも飲食には注意して下さい。刺激物は論外、酒も当分控えるよう。宿はここから遠いんですか」
「いえ、すぐそこみたいです。何て宿か聞きそびれたんですけど、連れが先立って居る筈ですから、大丈夫、すぐ見付かると思います」
「結構、では御大事に」
  そうしてなお、薬代を払おうとする武士に構わず、医者はその場を離れる。
  南久宝寺町の診療所へ直帰し、そのまま自室へ引き取ると、倒れ込むように就寝した。


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