前編五/七 その山崎の知り合いという医者、上方の内科医で未だ年若い。
昨今の青二才の例に漏れず、夢に酔い、希望に上滑る時代の洗礼を程々に受け、自意識過剰と怖いもの知らずを内包して温々(ぬくぬく)と育った、典型的な若輩医師である。
続々と西洋から持ち込まれる最新医学を、辛うじて知識としては吸収し、危なげに試してみるも、今一つ、期待以上の効能と患者の満足度を得るに至らず、結局は無難な従来の和漢薬治療に舞い戻る。そんな不毛な永久運動を飽きもせず繰り返すこの医者が、難波市中往来で一人の武士に掴まったのは、ある夏の日の夕方、往診からの帰りがけのことであった。
「助かりましたよ。何せ、初めての土地で勝手が分からなくて」
連れの一人が急病で動けずに往生してましてね、と件の武士は、緊迫感の希薄な声音で話しかける。
「お医者さんを探し回って挙句、かなり遠くまで来てしまって ―― 少し歩いて貰うことになりますが、構いませんか?すみませんね、無理矢理引っ張って行くみたいで…」
患者のもとへ案内するべく、医者の一歩先を足早に進みながら、あっけらかんと事情を説明する武士は、どうやら医者より更に年若いらしい。背を向けている故、顔立ちや表情は窺えないが、外面、建前、胸算用に塗(まみ)れた当地の空気に適(そぐ)わぬ、外連味(けれんみ)無い口調、野暮で粗末な服装、草臥(くたび)れた履物から察するに、遠路はるばる上方見物に訪れた地方の下級武士、素っ堅気な田舎侍というところだろう。
小馬鹿にしているのと、虫の居所が悪いのとを匂わせない程度には正面(まとも)に、医者は傍迷惑な道行き相手の背中越し、
「 ―― まあ、この一帯は歓楽地ですから、医家を見付けるのは難しいでしょうね」
と、応じておく。
「へえ、そうなんですか」
「もう少し北へ行くと何件か在るには在る、が、やはり遠い。土地勘が無ければ尚更です。それに…」
「それに?」
「難儀して見付けたところで、足元を見られては元も子もないでしょう」
医家も商売ですから、との医者の当て擦りを、しかし武士は気にするふうもなく、からからと笑って切り返した。
「 ―― ああ、成程。じゃあ、私は運が良かったんですね。わざわざ余所者に忠告してくれるような親切なお医者さんなら、私の足元を見るコトも無いでしょうから。御察しの通り、あまり持ち合わせがなくて」
「 ―― 」
―― そう、そして自分は運が悪かった、と医者は今更に、心中で後悔の溜息を付いた。よりによって、こんな疲弊した一日の最後に、こんなイレギュラー且つ旨味の無さ気な仕事を押し付けられるとは ―― 否、元々、運が悪いのは今に始まったことではない。今日一日、厄災から逃れようのない、ツキに見放されている感は常に在ったのだ。
思い返せば、早朝から急患で叩き起こされ、朝飯にありつく暇も無く、今時期流行りの夏風邪で倍増した来院者に向き合わされた。しかも、その日に限って、己が身を置く診療所の主、師匠筋の医師が不在で、余剰な患者までこちらへ回されるという特典付きである。昼過ぎて漸く、患者の列を捌き終えたかと思えば、今度は師匠に頼まれていた代診先を巡るも、幾名かは既に手の施し様がなく、前回の往診では回復に向かっていた患者の容体さえ、芳しくない。寝不足と空腹と疲労に医者の無力感を引き連れ、続いて呼び出された新町(大阪市中唯一の公許の遊所。京の島原、江戸の吉原と並ぶ三大遊所の一。)の置屋を後にする頃には、花街での仕事特有の後味の悪さまで供に加わる始末だ。気力、体力は骨抜かれ、こうなっては身体を休めるべく一刻も早く診療所へ戻ろうと、薬箱片手に帰路を急いでいた矢先、
『お医者さんですよね、ちょっとそこまで一緒に来て貰えませんか』
と、夕闇の中より声を掛けられれば、それは最早、厄日を締め括るべく、災難が人の姿を借りて無邪気に手招きしているとしか思えなかった。
どのみち、今日は最後までこういう一日なのだ。この分では、今から診る患者も望み薄だな。
一足毎に遠のいていく診療所に後ろ髪を引かれながら、医者は渋々、武士の後に続く。
やがて、狭く薄暗い路地を何度か曲り抜けたところで、二人は堀端の大通りに突き当たった。そこで一旦、武士が足を止めた為、不機嫌に気を取られていた医者は危うく案内人の背にぶつかりそうになる。
「…と、失礼」
そう小柄な方ではない自分の鼻先が相手の肩辺りを掠めて初めて、医者は意外と武士に上背があることに気付いた。
「?大丈夫ですか?…えーと、この辺りに存る筈なんですけど…あれ?おかしいなあ…」
きょろきょろと周囲を見回しながら、武士は気後れすることなく雑踏の只中に足を踏み出す。慌てて医者も、群衆より頭一つ抜き出たその後ろ姿を見失うまいと、人波を掻き分け必死で後を追った。
「…くそっ、どんどん先に行きやがる…」
少しは後ろを気遣うくらいの配慮は出来んものか。これだから侍ってやつは…。
だが、どうやら前を行く武士の方は物珍しさも手伝ってか、まるで雑駁な上方の賑わい ―― 一帯に湧き溢れる活気や笛太鼓、拍子木の音 ―― に、漫(そぞ)ろに気を持って行かれているらしい。見事な大道芸や巧みな客引口上、芝居興行の宣伝寸劇にいちいち視線が流れ、時折立ち止まっては、感嘆の声を上げ手を叩きと、完全な物見遊山モードに入っている。背後の医者はおろか、何処ぞで患っている筈の連れの存在さえ念頭に無い様子に、文句の一つも付けたいところだが、何故かそれが適わない。
「…?」
脇道へ逸れ放題、道草を食い放題でありながら、眼前の武士に今一歩追い付けない原因を見定めようとして、医者は漸く、武士の尋常ならざる身のこなしに気付いた。
あれだけ余所見(よそみ)をし、意識散漫に歩いているにも関わらず、武士の身は誰とも接触していない。この混雑にあって、行き交う人々に全く触れも掠めも邪魔されもせず、のんびりすんなりと歩を進めている、ように傍目には映る。
不自然な動作の介入無しに一切の障害物を避けるとなれば、余程の身体能力、敏捷性や柔軟性が要求される。成程、武士が実際より小柄に見えていたのは、背丈に見合った長い手足の操作が異常にスムーズな所為だ。腰に携えている刀二振りが飾り物でなければ、或いは大した遣い手なのかもしれない ―― 多少は武術の心得がある医者の勝手な推測だが、しかしここでは単なる推測に留まった。
さて、そのうち堀に掛かる橋の上を通り縋る段になって、ここでもはたと武士は足を止めた。欄干から長身を乗り出し、川堀の水面を大小様々な船 ―― 大半が道頓堀の芝居茶屋へ向かう楼(やかた)船 ―― が緩やかに往来する光景に見惚(みと)れている。
一足遅れて医者は武士の傍らに並び、飾り立てられた船の行軍を見下ろした。
「 ―― そんなに船が珍しいですか」
「ええ…いえ、綺麗だなあ、と思っただけです。まるで年中、お祭みたいな町ですね、ここは…と、?あれ?あんなトコにいる、何時の間に…」
と、武士は堀の底に視線を下ろすや否や、医者の止める間も無く、ひらりと欄干の向こうへ身を躍らせる。
「!?…」
橋下、船の乗降用に設けられた敷石に着地し、板を組み渡しただけの不安定な足場を身軽に伝い、駆けて行った。
「…あれなら軽業師でも食っていけるな…ったく」
置き去られた医者は一瞬、呆気に取られるのを舌打ちで解除し、橋から再び本道に戻ると手近な石段から堀中へ降りた。
茜色の灯と往来の客衆の影が映る水面を横目に、用心して水の届かぬ水路脇をそろそろと辿る。小脇に抱えた師匠秘蔵の薬箱の中、貴重な硝子の薬瓶が触れ合う耳障りな音を極力聞かないようにしながら、一つ向こうの橋柱の袂に行き着き、武士の声のする方へ近付いた。