二/五 ―― 二つの杯に酒を満たしつつ、事も無げに言う斎藤の、平素の表情を正面に臨む。
眼光穏やかで、何処か上の空のような、雲のように捉えどころのない風体。一瞬でも目を離せば、二度と同じ像を結ばせてはくれない、万華鏡のような危うさが、斎藤のポーズであることを、山崎は知っている。また時として、そのポーズが嗅覚の鋭い男の癇に障り、或いは敏感な女心の琴線を掻き鳴らすことも。そう、多少無害な男を装ったところで、敵の数が目減りするほど、世間は大目に見てはくれないということだ。
香ばしい匂いが湯気と共に立ち上る魚をむしりながら、斎藤は続ける。
「伊東さんの件。あんた直々に御推薦なされたそうで」
「まさか」
そのことか。山崎は苦笑した。
脱隊を目論む伊東一派と行動を共にし、逐一情報を流す役目を土方から仰せつかった斎藤だが、全ては土方の胸算段で決定されたことだ。土方に(斎藤の)間者の適性を問われ、彼なら適任でしょう、と同意したのは確かだが、よもや推薦したうちには入らない。
「で、引き受けたのですか?」
「他に選択の余地があるとでも?」
馬鹿言っちゃあいけませんやね、と軽口を叩きながら、自分の為にのみ用意した魚の身を、口に運ぶ。まるで密命を受け賜った直後とは思えない、この飄々とした態度を裏打ちする余裕は、一体何処から来るのか。
と、山崎の思惑に反し、斎藤の次なる発言は意外なものだった。
「ぶっちゃけた話、自信がありませんな、間者とは」
「…」
半身を食べ尽くした魚を裏返しながら、斎藤は失笑した。
まあ、副長命令ですし、やれと言われれば、やりますがね。
「性に合わないんですよ、これが」
「…」
どの口がそんな戯言をぬかすか、との呟きを酒で飲み下し、山崎は丁重に切り返す。
「 ―― とてもそうは思えませんがね。それに傍目にも、君は副長と折り合いが悪いことではあるし、あちらに寝返ったと周囲に思い込ませるのに、わざわざ一芝居打つ必要もない。君ほど条件の整った輩が他にいますか」
「誰の所為だと思ってんですか、あんた。大体…」
「それに、隠密業は君の御家芸でしょう」
「 ―― だからこそ、解るってこともあるんで。尤もそのお陰で、あんたが密偵として、どれだけ有能なのかも、嫌と言うほど心得てますがね」
だが、私はあんたじゃないからねえ ―― 言外に漂うこの言葉に、山崎は眼を細める。
「 ―― 珍しく気弱な台詞を吐く割に、ふてぶてしい態度は健在じゃないですか。自信が無いなら、最初からそれらしく振舞えば済む話だ。副長とて、使えん輩を指名する道理はないでしょう」
「ん…その、自信の無さが表に出ないんで、誤解され易いんですなあ、きっと」
「それで間者に向いてない、ですか?喧嘩を売っているのか、君は」
や、それもそうだ。ポンと素直に手を打つ斎藤につられ、山崎の険しく結ばれた口元が、つい緩む。
全く。何を考えているのだか、この男は。
それにしても。山崎は呟いた。
「 ―― 御家芸、か」
「?」
この場合、密偵の血がどれほど斎藤を助けるものなのか、予測が付かない。まるっきりの素人ではないにしても、市中で浪士を追い回すのと間者稼業とでは、あまりに勝手が違う。神懸った剣の腕も、この際、あまり役には立たないだろう。通常とは異なる質の、精神力や勘、機運を呼び込む必要もある。
―― だがしかし。これは面白い展開になるかもしれない。
土方よりこの話を聞かされた時から、妙な期待感が心中の一部を占拠しているのも事実だ。不謹慎だが、斎藤の命をかけるくらいの余興は、楽しんでもいいだろう。どのみちこの仕事、連絡(つなぎ)を取る以外に、監察の出る幕は殆ど無いとみた。
「 ―― 常の水が濃いか…」
「は?」
「或いは血が濃いか。お手並み拝見といこうじゃありませんか」
―― 何時もは斎藤の御家芸である不敵な笑みを、今回は先に山崎が借り受けた。
ちなみにこの時点では、伊東率いる高台寺党との抗争に関して出番無しと高を括っていた山崎だが、実は別の事件との絡みで大いに関わってしまい、斎藤を窮地に立たせる羽目になるのだが、それは別談とする。