一/五 一幕。
東国の人間にとって、上方の酒はどんな安酒でも、極上の美酒と感ずるらしい。
「そんなものですかね」
杯を口に運びながら、山崎は唸った。
斜向かい、火桶に乗せた網の上で、干し魚を軽くあぶりながら、斎藤が苦笑してそれに応じる。
「そりゃあ、あんたは舌が肥えてるからねえ。濁酒を飲みつけている連中からすれば、水色(すいしょく)、香とも清水の如し酒は、どれも逸品でしょう」
―― 斎藤がどこぞから名酒、珍酒を手に入れては、自室で山崎と酌み交わす習慣が板に付いてから、久しく時が経つ。今回の御題、否、御酒は、北摂は伊丹の酒蔵より、知人の口利きで取り寄せた桶数個の限定物、という触れ込みの丹醸『笹孤舟(ささこぶね)』と、灘目の上酒『蛍宴』。共に関西出自の諸白(ここでは清酒の意)である。
慶応三年、冬のある晩。
燗を好まない山崎に合わせ、冷酒を片手に魚を竹箸で引っ繰り返しながら、斎藤は言葉を繋ぐ。
「東国のも悪かないがね」
やはり一段落ちる。と、火の通り具合を見計らい、魚を皿に移す。そうして漸く、この晩初めて火鉢の守から離れ、座に落ち着いた。
そもそも清酒造業が関西で発展を遂げた歴史的背景に、大都市・江戸の存在は欠かせない。上得意先である遠隔の消費地へ『下り酒』を供給する為には、醸造技術もさることながら、容器や輸送手段の発達も不可欠となり、これらの問題を試行錯誤の末、クリアしていったのが、先に出た北摂や灘などの新興酒造地である。
関西における、この時代の清酒造業の流れを要約すると。
江戸時代初期、現在の清酒に最も近い品質の製品を得る製法が、奈良で考案された。その技術的特徴として、原料米から糠を除くことで酒の雑味を減らす、品質の安定化を図る為、醸造時期に雑菌の混入や腐敗の危険性の少ない寒気を選ぶ、また、大型容器の使用により量産技術を可能にする、等が挙げられる。斎藤言うところの、『水色、香とも清水の如し』酒の誕生である。
元禄期に入り、これら奈良の伝統的な酒造法より、遥かに優れた酒造法を創り出したのが、新興の池田や伊丹、鴻池などの摂津国北部、つまり北摂である。北摂の酒造法に関しては、奈良のそれと異なり、多くの酒造書が作成されており、これら著作の出現は、酒造技術が記述可能な内容をもつ水準に至ったことを示唆している。つまり、作業工程における数量関係を明確に位置付け、大容量化、品質の標準化を可能にしたのである。
更に、北摂の酒造技術に独自の改良を加え、瞬く間に江戸市場に食い込んできたのが、灘目の酒である。灘目においては、麹や酵母の栄養分に富む『宮水』を用い、発酵の徹底化を図り、雑味・糖分が少なく、アルコール濃度の高い上酒を造り出すことに成功する。結果、灘の酒を「淡麗」・「辛口」と表するのに対し、発酵が不十分で糖分が残るため、焼酎を加えた北摂の酒を「濃醇」・「辛口」とする、御当地代名詞の図式が出来上がった。
さて当時、この関西から江戸への『下り酒』のシェアの大部分を占めていた北摂と灘の酒、面白いことに、どちらかが完全に廃れるということはなかった。灘酒の出現により、北摂の酒が打撃を受けたのは確かだが、奈良の酒のように衰退することはなかったのである。その原因の一つとして、嗜好と階層による消費者のパターン化が考えられる。つまり、江戸における武士階級では伝統的な北摂の酒が、新興勢力の町人には灘酒が好まれていた為に、市場で二酒が共存できたのではないか、と推測されるのである。
ここで話を斎藤の自室に戻す。
北摂の『笹孤舟』と灘の『蛍宴』。山崎の嗜好からすると、軍配は『蛍宴』に上がる。階層云々は抜きにしても、アテを欲しない山崎にとって、前者の味は若干、くど過ぎるらしい。幾ら飲んでも底無し、全く顔色変わらず、あんたには飲ませ甲斐がないねえ、と斎藤にぼやかれるのが常の山崎だが、舌に合わない酒には殆ど口を付けない(公的な席でなし、相性の悪い酒を我慢して飲むなど、酒に対して礼儀を逸している、というのが山崎の持論だが、そこに酒を振舞う斎藤に対しての礼儀は考慮されていないらしい)。よって今回は、専ら灘酒に執心している。
一方、斎藤の方はといえば、山崎ほど間口が狭くはないようだが、先程から『笹孤舟』を、より多く消費している。
今回に限らず、斎藤の酒の趣味は、所謂「江戸の武士階級」寄りだ。山崎が首を傾げたくなるような、濁酒、地酒も好んで飲む。決して舌が鈍いというわけではなさそうだが、美味と感じる味覚の許容範囲が広いということか。
「…」
そしてこの現象、山崎にとって、当然でもあったが、同時に興味深くもあった。
人生の大半を東国で過ごし、酒の味もそちらで覚えたのであろうが、斎藤、元は播州明石藩の出である。明石と言えば、灘とは目と鼻の先、親しむ酒の主流は階層関係なく、当然灘酒だろう。
「…」
成程。所詮は明石の血より、江戸の水の方が濃いというわけか。
山崎は自分なりに納得し、杯を飲み干した。
そうして、瓶子と杯の間を何度か行き来した手を、今度は瓶子へ伸ばそうとして、斎藤に先を越される。
ん、と顔を上げると、
「先刻、副長に呼ばれましたよ」