・第三章の三へ二/七 男に先導されるまま行き着いた先は、大阪北詰の奉行所地下、迷路のような廊下を辿った果てにある、獄舎の前だった。
そこは地下に潜る手前の、微かな光の届く入口界隈で見かけた、格子をはめ込んだ二間牢とは趣が異なっている。廊下と獄とを隔てるのは一面漆喰の壁であり、こちら側の空間とを繋ぐ扉や窓の類は見当たらない。説明がなければ、壁向こうに部屋があるなど考え及ばず、単なる廊下の突き当り、と見過ごして当然の景観でしかない。
男は蝋燭の灯を、唯一壁に設えられた小窓に近付け、小声で促した。
「御覧になりますか」
「…」
御覧になるもならないも、その為にここまで連れて来たのではないか。
斎藤は覗き穴を塞ぐ、手の平ほどの木片に手をかけ、ぎぃと引き上げた。か細い断末魔のような蝶番の軋む音に、斎藤本人より、後ろに控える男の方が、僅かに顔を歪める。
「…」
ぽっかりと切り抜かれた小窓の奥、長の年月分の湿り気を含む、厚い壁で隔たれた、あちら側の世界を垣間見るには、有り難いことに、眼を暗闇に慣れさせる一手間が必要だった。これで、少しは時間を稼いで、心の準備に充てられる。前回、未知の領域に対する、己の弱さを思い知らされているだけに、つい身構えてしまう斎藤がここに存た。
「 ―― 見えますか?」
背後からの問いかけに、斎藤はそのままの姿勢で答える。
「…そのうちに。この中、完全な密室のようですが」
「空気孔が天井に一箇所、備え付けられているだけです。出入りは、そこから滑車を用いて行います」
それでは、まさしくここは、井戸の底というわけだ。或いは蟻地獄か。一度落ちれば、二度と這い上がることもままならないとは。
それにしても、ひどい空気だ、と斎藤は眼を細める。覗き窓を伝って押し寄せる饐(す)えた匂いに、息が詰まりそうになる。まあ、眼と同様、鼻も次第に慣れてくるのだろうが。
「…」
どうやら、先に慣れてきたのは、視覚の方だった。
闇の中から、人の形が浮かび上がる。まるで少しずつ、ほとほとと闇を人型に注ぎ込んでいくかのように、色合いの微妙に沈んだ輪郭が、斎藤の漆黒の視界の中で次第に像を結び、留められていく。闇より濃いその影は、一つが二つになり、三つになり ――
「…見えましたよ、滝本さん」
「…」
沈黙。この現場に慣れている筈の背後の役人が、息を潜め、視線を背けているのが気配で判る。斎藤は構わず、暑い故か寒い故か分からず滲む汗に、内心で舌打ちし、更に眼を凝らす。
新月の闇とは勝手が違う。払っても払っても纏わりつくような、やけに実体感のある闇を、意識と眼力で掻き分ける。
「…」
牢内部の状景は、凄惨の一語に尽きた。
六畳ほどの広さに詰め込まれている人の数は、二十をくだらないようだ。性別、年齢、個の判別さえ不可能なほど、誰も彼も皆、頬は痩せこけ、眼は落ち窪んでいる。着物は殆ど朽ちて意味をなさず、土色と思しき皮膚が骨格と内臓に張り付き、人間としての風体を辛うじて留めさせている。
彼等の症状に焦点を合わせるならば、外見よりは些か、多様性が認知出来る。徘徊する者、しきりに壁を叩く者、独り言を繰り返す者、膝を抱え震える者、枯れ枝のような手足を紐で羽交い絞めにされ、隅に転がされている者…しかし誰一人、自分の置かれている状況を把握しておらず、自分以外の人間の存在をも理解していない。
この光景を当代随一の絵師に描かせたならば、さぞかし鬼気迫る地獄絵図を拝むことが出来るだろう。
「…女もいる」
壁に寄りかかり、絶えず白髪を指で梳く老婆の姿に、斎藤は視点を合わせる。
「遊郭の妓です。客の持ち込んだ阿片でね。そう珍しいことではありませんが」
「 ―― 」
―― 成程。色褪せたのではない、こびり付いた虱の糞で白く縺れた髪に、尚も執心する女の性。かつては面輪を際立たせ、数多の客を虜にしていたであろう、翠髪の幻想が、果たして女の救いとなり得るのかは、謎だ。
「…」
「これでも彼等など、まだましな方です。破壊行為の激しい独房の中毒患者など、大概は壁に頭を打ち付け、自害してしまう」
「…」
斎藤は木片を下ろし、穴を塞いで振り返る。眼福でした、等と皮肉を言う気にもなれない。
役人の、何かに耐えるような口調が、手元の唯一の光源を揺らめかす。
「完治する余地のある重度患者は、こうして隔離して、阿片が身体から抜けるのを待つしかありません、禁断症状と戦いながら。…正直、彼等など殺してやった方が親切じゃないかと、思う時もあります」
「完治する余地、ですか。 ―― 治る可能性が無いと見なされれば、どうなります」
「!?…」
瞬間の炎のたわみに、それ以上の追求は控え、斎藤は別の網を張ってみる。
「 ―― 他に治療方法とか、例えば中毒を緩和する妙薬なんかは、無いんでしょうな」
「…毒をもって毒を制すという方法ならば、無いわけではありません。類似の作用を示す阿片以外の麻薬と摩り替えて、徐々に薬物含量を減らしていけば、ある程度副作用は抑えられ、緩やかに阿片を体内から排出させることも可能です。ですが…」
言い淀む役人に代わり、斎藤が渋々、言葉尻を引き継ぐ。
「コストがかかる」
「!?」
「病人である前に、罪人である彼等の苦痛を軽減する事など、いちいち気に掛けておれない。獄舎における罪人の回転を速め、実務の効率化を図りたいというのが、まあ奉行所の本音でしょう。阿片を抜く為の、この拘留処置そのものに対しても、過多な仏心だと嘯(うそぶ)く連中、中には存ても不思議じゃない」
「…その通りです」
ここは療養所ではない、というのが専ら、上の口癖ですよ、と吐き捨てる役人の口調に、組織の歯車の一つに過ぎない、己に対する苛立ちが滲み出ている。
いかんな、これでは何処まで行っても尋問じみてしまう。斎藤は気が滅入り、口を噤んだ。が、一旦溢れ出した役人の憤りは、そう容易に止まるものではない。
「ですが、たとえ健康体を取り戻せたとしても、その後には大抵、極刑か、島流しが控えている。人間として扱われない、この世の地獄より、あの世の極楽を選んだとして、果たして彼等を責めることができますか」
結局、我々には何も出来ないのです、そう自嘲めいた呟きを洩らして、漸く気が済んだのか。
役人は取り繕うように、
「さて、戻りましょうか」
と、斎藤に背を向けた。