・第三章の四へ三/七 地上に戻った斎藤は、そのまま阿片取締方与力、滝本孝三郎の邸に案内された。
奥の間で待つ間、開け放たれた障子の向こう、小さいながら手入れの行き届いた坪庭を何とはなしに眺める。その空間からは、役人の、裕福ではないが満ち足りて、慎ましやかな暮らしぶりが窺えた。
同様の印象を、茶を振舞う彼の内儀からも受けることが出来る。武家の女らしく、取り立てて着飾ることもなく、質素な小袖に薄く化粧を施しているくらいなのだが、匂うような品がある。
夫の客をもてなすことに、さりげなく心を砕いているようで、
「どうぞ」
と、差し出す茶菓子の傍らには、庭先から摘み取ったばかりであろう、露に濡れた花が一輪、添えられている。
「桔梗ですね」
手に取り、斎藤は言った。
「先程から、庭を御覧になっていらっしゃるでしょう。どうぞ御手元で…」
内儀は柔らかく微笑し、昨日、咲き始めたばかりだと付け加える。
同じ紫花でも、朝顔のような儚さも無く、竜胆のような可憐さも無い、この花の凛とした面立ちからは、媚を嫌い、花であることさえ否定しかねない気性が想像される。
「…まるで」
「え?」
「いえ、まるで奥方のようだと、思いましてね。綺麗な花だ」
「ま…」
内儀は顔を赤らめ、逃げるように部屋を出た。それと入れ替わるように、滝本が現れる。顔を袖で隠し、脇を擦り抜ける妻を顧み、
「?あれが何か粗相でも?」
「いえ」
斎藤は苦笑した。悪いことをしたな。
お待たせして申し訳ない、と滝本は斎藤の正面に座した。齢は三十前後というところか、実直そうな顔立ちは、如何な境地に立たされようと白は白、黒は黒としか表せない、不器用さまでをも宿している。
「山崎殿から、斎藤殿は全て承知済みと伺っておりますが。そう解釈してよろしいのですか?」
斎藤に宛がわれた眼差は決して鋭いものではないが、どんな些細な嘘偽りも見逃さんとする気迫が、見開かれた両目に込められている。
斎藤は、滝本に気付かれぬくらいに、軽く失笑し、答えた。
「 ―― 全てかどうかは、私にも分かりかねますがね。私は只、急な仕事が入って身動き取れない山崎の代わりに、貴方を訪ねて状況を聞いてくるよう、頼まれただけですから」
「ふむ…」
「正直なところ、意外でしたね、山崎が公儀と接触していたとは」
「!?そ、そんな大袈裟なものではありません」
勘違いされては困ります、と滝本は分かり易い焦り様、身振り手振りで斎藤の言葉を否定する。
「山崎殿は、入手した阿片取引の情報を、密かに我々に提供してくれているというだけで」
「…そちらは実動部隊というわけですか」
―― 確かに、阿片絡みの件となると、個の人間が捌くには、問題の規模が大き過ぎるのは解せる。が、隊に知れれば面倒事に発展するのは、必至でもある。相手が長州、薩摩ならば、山崎一人を斬り捨てれば済むことでも、幕府直轄領での諜報活動となれば、果たして山崎の首一つでカタがつくか。隊に迷惑はかけないと公言していた山崎の選択としては、どうにも迂闊に思えてならない。
と言って、今自分がこうして役人と膝を突き合わせている事態も、大概褒められたものではないが。
「 ―― ですから、あくまで山崎殿は密告者、公儀に協力的な一庶民ということです。我々とは何の関わりも無い」
「…山崎の流す情報とは、具体的にどんなものですか」
「主に、阿片の取引が行われる船の特定と、阿片窟の摘発です」
「阿片窟、ですか」
異国の話の端にしか乗らなさそうな、あまり耳馴れない言葉だ。日本にも存在するのか。
「そうです、何でも薩摩に肩入れしている、寺島の船具問屋を調査した際に、偶然掴んだ情報とか…。
―― 貴殿も御覧になったでしょう、阿片は簡単に人を滅ぼす。本当に、容赦ないものなのです、人格が破壊されていく過程とは。月並みな言い方ですが、坂を転がり落ちるより容易い。どんなに強靭な意志を持とうと、功徳を積もうと関係ない。例え数年、数十年厳しい修行に耐え抜いた禅僧でも、いざ廃人に仕立て上げようとするならば、半月も要しはしないでしょう。そして、延いては国をも滅ぼす。清ほどの強国をも、一度は傾かせたのですから。たかが植物、たかが一輪の花が、です」
「…」
滝本は膝の上の両拳を握り締め、熱を帯びるあまり、震えの掛かった声で続ける。
「ここ数年の間、大阪における貿易業は、著しい発展を遂げています。航路が発達し、輸出入制度が複雑化すれば必然、幕府の眼も届き難くなる。ここは江戸ではない。この町で、我々公儀が全てに満遍なく眼を光らせることなど、到底不可能なのです」
「…」
「実際、阿片の密輸はこれまでにない、最悪の事態を招いています。貴殿に御目にかけた光景、あれなど氷山のほんの一角に過ぎない。だが、この一月の間に、山崎殿よりもたらして頂いた情報のお陰で、これまで抜け穴から洩れていた、相当量の阿片を回収することが出来ました。全滅とまではいかないにしても、陸(おか)に上がるその前に、蔓延をある程度は食い止めることが出来た。勿論、これで万事解決したわけではありません。また新手の密売人が次から次へと現れるでしょう、所詮は、イタチごっこだと言われれば、それまでですが。
―― 斎藤殿。人間とは所詮、弱いものなのです。名立たる剣客の貴殿には理解出来ないかもしれないが、だからこそ、あの現状を実の眼に焼き付けて頂きたかったのです。人が一旦、阿片に付け込まれれば一溜りもない。その弱さこそ、人の人たる所以かもしれません。
ですが、犠牲になるのが常に社会的弱者である以上、手をこまねいて見ているわけにはいかない。たとえ空論、途方も無い野望だとしても、我々は何時か必ず、阿片を根絶してみせる。それこそが、我々、阿片取締方に課せられた使命だと、私は信じています ―― 」
―― 申し訳ない、つい喋りすぎたようです、と滝本は我に返ったように詫び、若輩の斎藤に対し、深々と頭を下げる。
「とにかく、山崎殿にお伝え下さい。この御恩は終生、忘れないと。万一、隊において、この件に関して嫌疑掛けられることあらば、この滝本孝三郎が一命を賭してでも、御守りすると」