・第三章の二へ一/七 ある夏日の夕方。
暑い時には熱いモノで汗を流すに限る ―― と、東山の情人の元を訪れて帰りの道すがら、斎藤は夕立に遭った。
邸を出る時点で既に日は翳り、後一押しで泣き出しそうな雲行きではあったのだが、素より、傘などと気の利いた物を持たせてくれるような女ではない。ああ、やっぱり降ってきたか、と途中、雨宿りがてら立ち寄ったのは、やはり女の居る場所だった。
知恩院脇に暖簾を掲げる、古道具屋『ぶたくさ』。
月に一度はがらくた漁りに顔を出すのが常の、斎藤御用達の店だが、売上への貢献度は存外低い。京で地道に人脈を開拓し、漸く得た秘蔵の『酒蔵』の一つでもある。
「構うこたない。雨が上がるまで、猫の機嫌取りでもしてるさ」
―― こうして夏雨(かう)の招いた客は暫し、店の奥庭に面する縁側に腰を据え、呑気にも、店に居着く雌猫の蚤取りに勤しみ始める。
「…」
軒先から零れ落ちる雫の、細かな砂利を穿つ規則的な音や、湿り気で艶を増した草木の芳香。視覚以外の感覚能で雨の庭を感じ取りつつ、目下、猫の毛並みと顔色の見極めに余念が無い斎藤の背に、
「たまに顔見せたかと思えば、大の男がちまちまと、ご苦労なこったね」
と、店から上がった女主人が、声を掛ける。生憎のこの振りでは、客足は望めないと見越したようだ。
―― 女、元は東国の生まれらしい。五年前、亭主に先立たれてから後、実家より雨霰と舞い込む後添いの話を一切断り、嫁ぎ先の播磨から遠縁の住まう京へ移ったと聞いている。幾つか職を経て纏まった金を作り、現在、女手一つで切り盛りしているこの小さな古道具屋を、自ら買い取った。歯に衣着せぬ物言いに適(そぐ)う、行動力と気丈さを持ち合わせた女だ。
何時だったか、『ぶたくさ』とは、どうにも無粋過ぎる、もちっとマシな店名に挿げ替える気はないのか、と斎藤が進言したところ、
「別に店の名を売ってるわけじゃなし、安物買いのあんたが気にする筋合いはないね。そんなに店の名変えたきゃ、あんたがこの店丸ごと、買い上げたらどうだい」
と、けんもほろろに突き返された覚えがある。その強気の手応えを楽しむのに、斎藤にとって十以上の年齢差は別段、気にならないらしかった。店先で値の交渉をする以上の間柄へと、格上げされた後も、時折店名に難癖をつけては、何時回転を止めるとも知れない、錆びた鉄輪のような関係に、ゆるゆると油を注している。
さて、件の女主人は、白い頤(おとがい)に扇子で忙しく風を当てながら、斎藤の背後から回り込むと、腰を屈め、情人の手元を覗き込んだ。
「?あらやだ」
斎藤の胡座の上では、四足万歳、肉球を天に向け無抵抗、まるきり降参状態の三毛猫が、斎藤のされるがままに仰向き、ぐるると喉を鳴らしている。
「何だい、こいつ。餌をやってるあたしにだって、こんな真似させないくせに」
この界隈でも、愛想の無い猫で通ってるってのに、何だい、この情けないザマは。
斎藤は顔も上げず、
「男を見る眼が肥えてるってことさ。或いは女同士、ソリが合わんか」
と、三色の毛を丹念に掻き分けては、不意の襲来に逃げ惑う小さな虫を、小気味良く潰している。
「呆れた。あんたには、そいつがお似合いだよ」
それにしても、蒸し暑いわねえ。この雨で少しは凌ぎ易くなるかと期待したのに、一向に涼しくなりゃしない。女は、軒下から灰色の空を仰ぎ、呟く。
猫の喉を鳴らす音に折り重なるように、時折、彼方の雷鳴が雲を伝い、此方の庭に降りて篭る。その度に、雨の飛礫(つぶて)が雷鳴と競り合うかのように地を叩き、草木を叩く。
―― やな雨。これじゃあ、咲き初(そ)める前から花が皆、落ちてしまうじゃないか。
「…」
対して、女主の不機嫌 ―― その元凶は果たして、自然現象などではなく、斎藤の着物に残る、幽かな伽羅の香なのかもしれないが ―― をさておき、猫は斎藤の手の中で、まるで夢見心地、眼を閉じ、くたりと脱力している。
「…呆れた」
女は暫く、猫と斎藤を見下ろしていたが、ふと、猫にまで嫉妬する馬鹿々々しさに気付き、斎藤に店番を任せると、得意先へ注文の品を届けに出掛けてしまった。
再び静寂が戻り、一人と一匹は、屋根や地面や草木に跳ねる水の音に、耳を傾ける。
やがて蚤との格闘に飽きると、斎藤は漸く顔を上げ、首を左右に曲げて関節を鳴らした。
未だ恍惚の夢から覚めやらない、しどけなく身を預けてくる猫の耳の裏を掻いてやりながら、今日ここを訪れて後初めて、庭を眺める。
「…」
たかが天の水糸を編んで拵えた、帳(とばり)越しに庭を見やるに過ぎないのに、沈んだ灰色の景色の中で、葉や花の色彩だけは浮き立って、異様なほど鮮やかに映える。不思議なものだ、人間なぞ、雨に濡れそぼっても大概、惨めで貧相な姿に成り果てるだけなのだが。水も滴る何とやら、など現実には例外中の例外で、まあ絵になるといえば、知った顔の中では土方くらいか。
―― 薬草茂り、木陰揺らぐ庭、陽光帯びる庭、雨の庭…と、最近、柄にも無く、時を隔てず庭を観賞する機会に恵まれている。
「…」
そうして、小さな坪庭との抱き合わせの記憶、一昨日の上方での一連の出来事を思い返し、さて、と斎藤は息を付く。
雨の勢いは次第に増し、地に跳ね上がる水煙が、まるで催眠のように、庭と意識に紗をかける。
斎藤は眼を閉じた。
さて、どうしたもんかな。