・第三章の一へ九/九 長い一日だった。しかも何の収穫も無かった割に、中味はやけにハードだったような気がするのは何故か。
「…」
京へ戻る船の上で、斎藤は胡座の上に肩肘を付き、しみじみ一日を振り返った。
事前に山崎が手配していたのか、帰りも往きと同じ船、同じ船頭である。積荷だけは降ろされていたので、今夜は身体を横たえて休めそうなのが、せめてもの救いだ。
山崎の方に目をやると、やはり往きと同じく微動だにせず座し、黒い水面を見詰めている。
「何考えてるんですか?」
「…君のことを考えていました」
「はあ?」
真面目な顔でそういうことを言わないで下さいよ、と笑う斎藤に、
「意外でした、屍など見慣れている筈の君が、あれほど動揺するとは」
「ああ、あれですか」
全く、何を言い出すのかと思えば。
「そりゃ誰だって驚くでしょう、あんなものを急に突き付けられりゃ、普通」
「その普通の感覚を手放していないことを、私は言っている」
「んな大袈裟な…」
「何故なんです、あれだけ日夜、多くの屍の山を築いていながら、何故、正気を保っていられる」
「何故と言われても、単に私が情けなかったというだけの話でしょう…大体、そんな取るに足らんことを、いちいち小難しく捏ね繰り回す暇があるんなら、響殿と仲直りする方法でも思案してはどうですか」
「どうして、ここに響の名前が出て来るんですか」
山崎の平板だった口調に、押し殺した苛立ちの影が徐々に差し始める。
「君には関係の無いことだ」
「ここまで巻き込んでおいて、今更それはないでしょう」
「君が勝手に付いて来たんだっ!」
「大体、あんな別れ方をして、哀れだとは思わんのですか?いくらあんたが朴念仁でも、彼女があんたに惚れてることくらい気付いてるんでしょうがっ!?」
「ほお、君のような百戦錬磨の色男直々に、色恋沙汰を御指南頂ける機会を得ようとは思いませんでしたな」
「山崎さん、あんたね」
「妹なんですよ、彼女は」
「 ―― は?」
―― 妹?
「ちょっとした事情がありましてね、生まれて直ぐ、うちから瀬田の家へ養女に出されたんです」
そうして山崎は、懐から携帯用の煙管を取り出し、やがて沈黙を埋めるように煙を燻らせる。
闇を背景に、陽光の下とは比較にならない程、くっきりと浮かび上がる煙の道筋を、斎藤はぼんやりと眼で追った。不毛に紡がれては空に溶ける、儚く細やかな白い糸の煙幕を張っているようにも見える。
「…彼女はそのことを?」
「無論、知りません」
―― 成程、それで山崎の響に対する、気遣いながらも一線を画した態度、従兄妹同士にしては似過ぎている面立ちに合点がいく。
だが妙なのは、それを響に隠し通す必要があるかということである。養子縁組など茶飯事なこの時代、血縁内となれば尚更、真実を告げることに、さして支障を来たすとも思えない。
斎藤のそんな疑問を察してか、
「 ―― 斎藤君、君は畜生腹というものを御存知ですか」
「!?」
畜生腹とは、一度の出産で二人以上の赤子が産まれる、所謂双子、稀に三つ子を侮蔑する呼称である。
古来より忌み嫌われる多胎妊娠は、先代の受けた畜生の怨念が原因であるとか、特に異性の双子など、母親が畜生と交わった為に出来た産物であるなどと見なされ、母子共々白眼視されてきた歴史の根は、現代では想像もつかない程深い。迷信は、人間の『自分とは異なるもの』、或いは『自分には理解できないもの』に対する、本能的な恐怖に裏打ちされているのだから、それに理性の産物である倫理や道徳が太刀打ちできる筈もないのである。理性が本能に打ち勝つには、未だ時間の経過と社会の成熟を待たなければならなかった。
慣習として、どちらかが他所にやられるか、始末されることが当然のように黙認されていた時代である。
医家に双子として生を受けた山崎と響だが、見識の進んだ家風とはいえ、結局、俗習に抗うことは出来なかった。双子の上には既に息子が三人存たので、手元に残す赤子には、初めての娘である響の方が選ばれていた可能性は高い。しかし偶然、二人が産まれる五日前、瀬田の内儀が女子を死産していたため、ほぼ自動的に響が引き取られ、山崎が生家に残された。よって正確には、響は養女として瀬田の家に入ったのではなく、瀬田の死んだ娘と摩り変えられたということになる。瀬田の内儀は元々妊娠していたのだから世間への体裁は保たれ、また瀬田医師とは叔父と姪の関係であるから、父親似で通して何の不審も抱かれなかったという、無論、響本人にも。
「畜生腹というだけで、実の親兄弟から疎まれるというのは、あまり気分の良いものではないんですよ。響にまで、そんな思いを味わわせる必要はないでしょう」
「…」
「それにしても、響が長崎から戻って来ていたのは予定外でした。先生に合薬の分析をお願いしているのですが、今後あそこへは顔を出し辛くなりましたねえ…」
煙と共に自嘲気味に吐き出した台詞は、夜風に紛れてふわりと消える。
と、斎藤が手を伸ばし、ひょいと山崎の手から煙管を失敬すると口に咥えた。
「…でも、手を引く気無いんでしょ?この一件から」
「…」
肯定の代わりに、苦笑して見せる山崎。
「それじゃあ仕方ありませんな」
ま、せいぜい頑張って下さい、と煙管を持ち主の手に戻し、身体を横たえると、ごそごそと犬のように、寝心地の良い体勢を探りにかかる。
「おや、手伝っては頂けないんですか?」
「ご冗談を。私は単なる御目付けですのでね。出来る事と言えば、あんたが暴走しないよう、横で見張るくらいですな」
「…暴走ですか…」
確かに。
そして思った。少なくとも、自分の眼に映る斎藤は正気だった。或いはこの男ならば、何に惑わされることなく、正気の判断を下せるのかもしれない。
「…もし、私が暴走して手が付けられなくなったならば、その時は斎藤君…」
と、言いかけて、斎藤が既に寝息を立てていることに気付く。
「…」
人の話くらい最後まで聞けんのか、とぼやきながら、山崎は寝入った男に羽織を放って掛けた。
続