・第二章の七へ六/九 「ここが堂島、大阪三大市場の一つや」
新町の太夫道中に足を止め、道頓堀の芝居小屋を見物し、出店が間断なく立ち並ぶ大通りを、店主と軽口を叩き合いながら北へ向かってそぞろ歩き、…と、上方見物の名所を押さえた響の案内の末に行き着いたのが、ここ米市で名高い堂島川、北岸一帯の物流基地である。川を挟んで反対側、中之島には諸藩の蔵屋敷が軒を連ねており、白壁に川面を照り返す夕陽の紅が射す様は、さながら一枚の絵のようだった。
日は既に傾き、米の取引は終了している筈なのだが、通りは人でごった返し、昼の熱気が冷めないままの賑わいを見せている。
「…話には聞いていたが、それにしても大した活気だ」
斎藤が感嘆するのへ、
「永代蔵の舞台になってるだけあるやろ?」
並んで歩く響が得意気に応じる。
山崎は御目付け然として、二人の数歩後ろを付いて歩いている。事の展開に今一つ納得しかねている風情が眉間の辺りに漂っており、響と斎藤はそのことを可笑しがった。
「あんな仏頂面で歩かんでもなあ…蒸はん、京でもあんな調子なんか?」
「まあ、そうですな」
「新選組て、結構な大所帯なんやろ?あんなんで浮いてしまわんのやろか?」
「さあ…」
―― 響が若者の集団生活を思い描くとなると、当然引き合いに出すのは、自宅の大部屋で蘭学の研鑚に励む塾生達のそれだろう。さて、それと隊士達の日常との間に、どれ程の共通点を見出せるものか。
或いは行く道の目指す先にあるものが生か死か、対極にあるようでいて、そこにどれ程の相違があるものか。
響から、ああいう話を聞かされた後では、一体、山崎は全てを見通した上で死の道標を選択しているのか、と勘繰ってしまいたくもなる。
多くの命を処断してきたという、その手は、或いは多くの命を救う手にも成り得たのだ。
「…」
取り止めのない思考が、喧騒の波から意識を遠ざけようとした時。
「!?あ、ちょっとここで待っててな、饅頭買うてくるわ」
不意に、饅頭の屋台を見付けた響が駆け出し、斎藤は白昼夢から解放されたように、再び往来の只中に引き戻された。
「…」
そうして機を逃さず、追い付いた山崎が口を開く前に、
「竹田座から我々の後を尾行ている侍達、何者ですか」
思わず自分から先手を取ってしまった。
「…気付いていましたか」
「気付いていたか、はないでしょう」
平素の他人を喰った口調を装ってはいるが、語気に余裕が無い。答えてから、しまったと思ったが、山崎は既に目をすがめていた。
「 ―― 響に何か吹き込まれましたか」
―― 腹が立つ程、聡い人だな。
「…いえね、普段考え慣れないこと考えたもんだから、きっと調子が狂っちまったんでしょう。何、大したことじゃないんですよ」
「…」
「それより、後ろの御歴々について、お聞かせ願いたいですな、従兄妹殿が戻って来る前に」
「…さて、見覚えのない顔ですので何とも言えませんが。今朝は少々、派手に嗅ぎ回ったのでね、或いは手入れした問屋の何れかが後ろ暗い所あって、雇った浪人かもしれません」
「ならば収穫はあったわけだ」
「こう、すんなり尻尾を出してくれるとは期待していなかったのですがね」
あっさり苦笑する山崎を横目に、
「 ―― 山崎さん、あんた実は、こうなることを当て込んで動いたでしょう?」
「いけませんか?単独ならば、こんな大胆な行動は取れませんがね」
新選組屈指の剣客という駒を、みすみす盤上に出さない手は無い。山崎の眼がそう語っている。
まさか、自分が大阪行きに同行することまで計算に入れていたんじゃあるまいな、と斎藤は内心、唸った。
「…従妹殿は先に帰した方がいいんじゃないですかね?」
「いや、かなり遠くまで来てしまいましたし、我々といた方が安全でしょう」
そこへ、湯気の立つ白い饅頭を三つ、大事そうに抱えた響が戻って来た。
「お待たせ、ほれ、蒸かしたてやで」
はい、これ蒸はんの、これ斎藤はんの、と手渡し、自分の分を幸せそうに頬張る。まるで屈託が無い。
対して甘い物がそう得意ではない両名だが、まあ折角だからと響に倣って食べ始める。
「 ―― 先程小耳に挟んだんだが、昼間観た芝居ん中で、お初と徳兵衛が心中したって森が、この近くだってのは本当ですか?」
浄瑠璃『曽根崎心中』は、醤油屋の手代徳兵衛と遊女お初の、実在した心中事件に材をとった作品であり、当世流行の心中物の走りでもある。二人は堂島新地から露天神社境内地の森に辿り着き、七つの鐘に名残を惜しみながら最期を遂げる。
斎藤のわざとらしい話の持って行き方に、傍の山崎はくらりと眩暈を覚えた。が、実際に自害した地となれば、今の刻限では人気も多くあるまい、との思い付きは悪くないかもしれない。
それとは知らず、響は北の方向を指差して答えた。
「こっから目と鼻の先やで。そやな、もう暗なってきたけど、折角ここまで来たんやし、天神さんにでも参って帰ろか」
こうして斎藤と山崎は、髪を川から吹く風になびかせ、先陣切って歩き出す響の後に続いた。