・第二章の三へ二/九 この時代、城構築時の豊臣期の基盤と、夏の陣以後の徳川の政策が相俟って、一大商業都市として発展していた大阪だが、同時に国際色豊かな交易都市でもあった。市中における武士階級の絶対数が少ない=町人独自のルール、文化が幅を利かせ、外来物に対する好奇心と柔軟な姿勢が功を奏した結果である。長崎を経由してもたらされた清や西洋諸国の物資、知識が一旦大阪に集積し、そこから江戸や全国に発信されていたのだから、その繁栄ぶり、また人々の意識は、封建主義とは異質の、どちらかといえば現代の感覚に近い要素を多く含んでいたのかもしれない。
そのような状況下で、国内外における物流の分野の中でも、特に流通経路が整備、組織されていたものの一つに薬種業が挙げられる。北船場から道修町にかけて大小様々な薬種問屋が軒を連ね、この街一帯が、薬種における日本の一大流通センターとしての発展を遂げていた。長崎から西海路を辿って持ち込まれた輸入薬(唐薬種)は、この地で品質を鑑別、価格を決定され、全国各地に配送された。また日本産薬(和薬種)に関しても、唐薬種ほど流通経路が整備されてはいないものの、多くの種類の取引が、この地で成されていた。
よって、この薬種問屋街界隈に医家が集中して林立するのも、流れとして有り得ることではある。特に蘭方医療に関心を抱く者であれば、(日本においては)最新の輸入薬をタイムラグなしに手に入れることのできるこの環境は魅力的であったろうし、また医学を志す若者の教育の場としても最適であっただろう。現に幕末、橋本左内や大村益次郎、福沢諭吉など多くの維新の立役者を輩出した蘭学塾『適塾』も、この界隈に開かれていた(※適塾…幕末の蘭学者・医学者である緒方洪庵の開いた学塾)。
山崎の指示通り、斎藤が訪れた『瀬田塾』も、そんな時代の流れを反映した学塾の一つであった。浄土真宗・東本願寺の御堂である難波御堂の更に南、南久宝寺町に位置し、道修町からは若干離れているものの、割に至便な立地である。
「ここか…」
大仰な門を潜り、玄関先より声をかけてみたものの、何の返答もない。だが表の打ち水跡から、邸内が留守とも思えず、
「お邪魔しますよ」
と、開け放たれた内の土間へ足を踏み入れた。
「ん?」
先ず斎藤の眼に飛び込んできたのは、三和土の上、無造作に戸板に横たえられている人 ―― どうやら仏か ―― らしき物体の影だった。室内の暗さに慣れないものだから反射的に眼を凝らし、その物体を見極めようと迂闊に近付いたのがいけなかった。
「!?」
斎藤は口に手を当て、思わず後退ると、見えない力で勢いよく突き押されたように、そのまま壁に背を預けた。
「…」
いかん。ダイレクトに見てしまった。
込み上げる胃液を、何とか収めようと身体を緊張させ、血の気が引いた故の、羽虫に似た残像の猛襲に耐え切れずに眼を閉じる。だが視界を闇に沈めてはみたものの、眼の前の赤や黒の斑紋は消えるどころか、点滅を繰り返しながら益々、斎藤の意識を撹乱させてくる。全身から嫌な汗が噴き出るのが判った。
斎藤がまともに相対した物体、それは頭部も含めた全身の皮膚を完全に剥がされ、脳や血管、筋肉が露になった男の屍体であった。恐らく塾生達の解剖術の教材として使用されたものだろう、一応は何らかの防臭・防腐処理が施されているようだが、薬品と血とが混じり合った独特の刺激臭が、尚更斎藤の吐気をあおる。
その上、漸く息を付き、体勢を立て直そうとした時、
「!?…っ」
更に追い討ちをかけるように、頭部に激痛が走った。正面からしたたか打たれたのだ。
まさに泣きっ面に蜂とはこのことである。心身共への奇襲に今度こそ持ち堪えられず、斎藤は頭を抱えたまま、その場に膝を付く。
「何や、二本差しのくせに、手応えないなあ」
不意に、若い女の声が、息を詰め苦痛をやり過ごそうとする斎藤の耳に届いた。
「何嗅ぎ回ってんのか知らんけど、患者やないのなら、さっさと出て行き。ここにはお侍はんの気ィ引くようなもんなんか無いで。刀なんか仰山持って、さては金に困って売りに来たんか?」
「…まいった、降参…」
…これも士道不覚悟になるんかな、と疼く頭を押さえながら、何とか視線を上げると、その先には木刀を構えた女が侮蔑の面持ちで立っていた。女は訝しげに眼を細め、
「?何やあんた、顔真っ青やないか。そんなに強く打ったつもりないで」
木刀の切っ先を斎藤の顔正面に突き付け、揚々と賊の動きを封じている。
娘と呼ぶには躊躇してしまう、恐らく自分か、も少し上の山崎辺りと同年だろうが(こんな状況下でも、女の齢を見抜く眼力にだけは自信がある)、全く化粧っ気がない故だろう、十八、九と言っても通用しそうな形相をしている。しかも少女というより少年のような、という形容が相応に思えるほど、顔立ちに甘さが見受けられない。まげも結わず、豊かな黒髪を無造作に肩下で束ね、医家特有の白い上っ張りを羽織っていることから、ここの家人であることは容易に察しが付いた。
「何の騒ぎですか、これは」
その時、斎藤がここで落ち合う手筈となっていた男の声が、この不毛な捕物に終止符を打った。
声のする方へ眼をやると、山崎が半ば呆れ顔で戸口から中を窺っている。双方の間に割って入る気は、あまり無いらしい。
「!?蒸はんっ!?」
女は山崎の姿を認めるなり、仕留めた侵入者の存在も無視して木刀を放り出し、戸口へ駆け寄った。