・第二章の二へ一/九 「起きて下さい、じきに着きます」
最初は何故、山崎の声が聞こえるのか理解できなかった。緊急の出動以外で、誰かの声に起こされることなど久しくない所為か。
「斎藤君」
声音が一段階、険しさの度合いを強める。
「…すみませんね、朝は弱くて…」
肩を揺り起こされて漸く眼を覚ました斎藤は、座った姿勢のままで硬くなった身体をほぐすよう、無意識にのびをした。水面の淡い反射光が直接、眼に飛び込んできて初めて、昨晩、山崎の上方行きに強引に同行し、自分の身が船上に在ることを思い出す。
「ほお…」
見渡せば何時の間にか川幅は広がり、彼方の対岸の風景も変わっていた。水場間際まで蔵が立ち並び、土手の石段に板を渡しただけの船着場では、大小の船から積荷を降ろす人足衆や、船宿の前で水を撒く女、声高に値の交渉をしていると思しき町人連中の姿も見える。道なりには朝市も開かれているらしく、徐々に人々が集まって来ていた。未だ船から岸までの距離が、顔の分別が付く程には近くないのと、船が風上にあるのとで、人々の声が耳に届いているわけでもないのだが、不思議と活気の波動がここまで伝わってくる。河口付近特有の、僅かに潮の香が混じった空気も心地良かった。
京都の雅な風も悪くはないが、こうした上方の手垢臭い雰囲気も、斎藤は嫌いではなかった。趣味の古道具漁り、あの薄暗い店内でとっくりと崩しにかかるのが快感な、宝ともガラクタともつかない品物の山。それと通じる得体の知れなさ面白さが、この町にはあるような気がする。
さて、淀川から分岐した犬川が、今度は寝間川と合わさる地点、天満橋袂の乗船下船場で二人は船を降りた。
「ちょっと薬種の問屋街の方を見て来ますので」
山崎は手早く袴と差料を外し、結い髪隠しに手拭を被る。
「瀬田松雲という町医者、私の叔父でもあるのですが、船場(せんば)で塾を開いていますので、そこで待っていて下さい。何、半刻もかからないと思いますが」
「塾?」
「蘭学ですよ、昨今流行だそうで」
ここから川沿いに進み、淀屋橋から左に折れれば直に着く、と大まかな道順を説明し、荷と差料を斎藤に押し付けると、山崎は何時ぞやの夕暮れ時と同じように、雑踏の中に消えた。
おい、ちょっと待て、と山崎を引き止めようと上げた斎藤の手が、虚しく宙で空回る。
「…おーい…」
瞬く間に群衆に同化してしまう。何度見ても、あまり心安らぐ光景ではなかった。
「…」
取り残された側の斎藤は、こちとら、大阪の地理に明るいわけじゃないんだがな、と独り言ちた。出張で何度か往き来したことはあるが、用件は大抵、大阪城周囲の奉行所や詰所で済むので、商業地区の広がる以西一帯まで足を伸ばすことは殆ど無い。以前、道頓堀で設けられた酒宴の席での、腹痛に苦しんだ苦い経験も災いしているのかもしれない。
だが斎藤にしても、勢いで山崎にくっついて来てはみたものの、具体的に何をするかアテがあるわけではなかった。単なる個人的な興味で動いているだけだ。山崎の力になれればそれに越したことはないが、探索業に素人が関わる危険性は重々承知しているし、実際は山崎の仕事の邪魔にならぬよう、対岸から事を眺めるくらいが関の山だろう。
個人的興味。
それは、何故山崎がそれほど阿片に拘るのか、に尽きる。山崎本人が究明しようとしている阿片流出元には、前者ほどの興味は無かった。
しかも、実はその拘る理由に、斎藤は大方の見当を付けている。あとはそれがビンゴか否か確かめるだけだが、それはこの件が片付くまで保留にしておくつもりだった。
さて、と大小二振りを肩に担ぎ、斎藤は更に川沿いを下流向かって歩き始めた。