二/三 「…こうしてっと、ここが物騒な都(まち)だって事を忘れちまうなあ」
職人商人の威勢良い掛け合いや、若衆らの賑やかし、商家の隠居連の愚痴談義等々、活気の源泉に事欠かない、何処か下町的な店内の雰囲気に加え、表の路地、向こう三件先から微かに聞こえて来る門附(かどづけ)芸人の江戸唄が、仮初(かりそめ)、永倉の胸中に住まわった郷愁を更に煽る。
「…」
意識せず盃を上下する手を休め、永倉は唄に聞き入る。周囲のざわめきに紛れ、当初は気付かなかった斎藤も、向こう二件、一件と声が近付いて漸く合点し、
「 ―― 山時鳥(やまほととぎす)か。珍しいな」
盃を空にしつつ、何気に素堂の句に掛けた。
「ああ。こいつはますます江戸が恋しくなっちまう。大方、吉原界隈でならした技者が京くんだりまで流れ来たんだろうが…それにしても、いい声だ」
紅い灯の下で聞きつける京唄が、白粉や紅の媚香を焚き染(し)めた春の花霞とすれば、闇より届く件の声音は、さながら青葉を差し揺らす初夏の薫風といったところか。また、常ならば狭い室内で音が篭り、まったりした余韻となり唄に絡む三味の演奏も、戸外では余剰な反響が封じられ、軽妙に唄に沿うのみで、節の持つ瑞々しさを際立たせている。
「…見事なもんだ。吉原の流しと言やあ、廓の遊女がふるいつきたくなるような色気の乗った美声と聞いちゃいたが…成程、こいつは男の俺でも、危うく背筋に震えが走るところだぜ。なあ?」
嘆息し、いよいよ聞き惚れる永倉は、側を通りかかった女を呼び止めると、折りを見て表の兄さんに渡してくれ、と小銭を握らせた。その間、それまで永倉程の興味も感慨も示さなかった斎藤の、酒を注ぐ手が不意に宙で止まる。
やがて、門附は二人の居る店の前で歩を止めたらしく、唄は歌詞の一語一句まで聞き取れる程に耳近くなる。
―― はざくらの たたきさそうは くいなぶえ…
「?たたきを食うって言ってんのか?」
今夜はつくづく、たたき付いてるんだなと、永倉が唄の出だしについて斎藤に尋ねる。
「ああ。鳥の水鶏(くいな)の鳴き声は雨戸を叩く音に似ているから、水鶏が鳴くのを『叩く』と表する。葉桜の今時期、『水鶏が叩く』のを『(鰹の)たたきを食う』と掛けているのさ」
と、的確だが上の空で答える斎藤は、酔い覚めた視線を盃に落とし、何やら考え込んでいる。
「?おい、何だよ、急に。浮かねえ顔して」
「ん?いや、今の唄の意味を判じあぐねていたのさ。 ―― 恐らくは、こういう唄だろうよ」
葉桜の 叩き誘うは水鶏(くいな)笛
波に月船 葦(あし)の寝間
一か八かで 三味糸はねるか
邪魔立てなさるな 暁方(あけがた)の
雲のいとまの 一番鶏
―― 葉桜の(鰹の旬と重なる)頃、場所は隅田川沿い、向島辺りか。夕刻より遊びに興じた屋形船、座興も出尽くし、ここは岸辺に生息する水鶏をどうにか鳴かせて風情を楽しみたいところだが、神経質で人の気配に敏感な野鳥のこと、水鶏笛を吹いて鳴き声を真似てみても、一向に埒が明かない。やがて日が落ち、川面に(屋形船と同じく)三日月の影が漂う中、岸辺一帯を覆う葦原の何処かに塒(ねぐら)を拵え、水鶏も休んでいることだろう。或いはいっそ一か八か、撥(ばち=八)で三味線を弾き鳴らせば、応えて水鶏も鳴くかもしれない。だが、夜を徹して頑張っても、朝が来て一番鶏が鳴こうものなら、水鶏は驚いて最早鳴いてはくれないだろうから、どうか暁方の雲が去るまでは鶏よ、邪魔しないでおくれ ――
「 ―― なーんか、こじつけがましくねえか?ホントにそんな意味なのかよ?」
斎藤の解説がどうにも腑に落ちない永倉は、無遠慮に顔をしかめる。たかだか数節、あんな短い語の連なりに、そこまで穿った内容が詰め込まれているとは、俄かに信じ難い。
「おめえが言うと、出鱈目でも何でも、尤もらしく聞こえちまうから油断ならねえ」
「まあまあ。唄の解釈なんて大概、そんなもんだろうよ。聞き手次第で、筋書きは如何様にも変幻する。意味なんて有って無いようなものさ」
だがまあ、大意はそう外れていまい、と斎藤、ここで漸く苦笑する。
「夜の河岸の情景を詠み込んだものだろうが、如何にも江戸人の好みそうな情緒じゃないかね。しかもこいつは表の意味だが、裏の意味は、葦で編まれた簾(すだれ)の内、寝間で鳴かせるのは、何も水鶏だけじゃないときた」
「はあ?」
「色恋の唄だよ、こいつは。船遊びに呼ばれた遊妓が好いた旦那を振り向かせようと、笛やら三味やらの手管を用いてはみるが、旦那は一向に靡(なび)いて(=鳴いて)くれない。そうこうしているうちに、タイムリミットの夜明けは間近で、どうやらこの恋は望み薄、蜘蛛(くも=雲)の糸の様に行方は拙いといったところさ」
そうして斎藤が酒を飲み下し、説明を引き取ったところで、先程、永倉が銭を言付けた女が、手を前掛けで拭きながら寄って来る。
「何や、無欲な芸人さんや。まだ修行中の身やから心付けは無用とかて、行きはりましたわ」
ほなこれ、と永倉の手に銭を返し、帰りしな空の銚子を引き取り戻って行く。
掌に置かれた銭の遣り場、どうしたもんかとあぐねる永倉に対し、
「は、金を受け取らないとは、こいつは奇特な門附も存たもんだ。気に入らんね」
斎藤は皮肉に口元を歪め、呟く。
「?そういうこともあんだろうよ。真の髄から芸人たりゃあ、納得いかねえ御足は受け取れねえんじゃねえのかい」
「なら、流しなんぞへ身を落とさなきゃいいのさ」
あんたも、一旦身から放した銭を黙って懐へ仕舞い込む程、野暮気には走るまい。こいつは江戸の流儀だ、金を受け取ってもらおうじゃないか。
そう言って飲代(のみしろ)を卓へ置くと、斎藤は永倉の反応する間も与えず、表へ出た。