Nameless Birds
番外 天敵   -Stardust-

番外 天敵の前編三
番外 天敵の前編一
作品



前編二/七

  次に沖田が眼を覚ました時、先回りして彼を待ち受けていたのは、室内に吊り下ろされた宵闇の帳だった。両眼に頼らずとも、布団の上から、身体全体へ均等に圧し掛かる闇の強さで、夜半をかなり過ぎているらしいと思い至る。
  障子を隔て、これから巡視に出掛けると思しき夜勤の隊士達の立てる物音が、庭先の虫の声に紛れ、耳に届いた。
「…」
  こんな刻限まで寝入ってしまったのか、と自嘲し、重く腫れた瞼を指で押さえようとして、ふと、額に置かれた濡れ手拭いの存在に行き当たる。
  そう言えば、暗闇の筈なのに己の手、五本の指の輪郭が、視野内に濃い影として縁取られている。早くも眼が闇に慣れたにしては、鮮明過ぎる、と、不思議に思いつつ手拭を取り、沖田は首を横へと巡らせた。
「…?」
  沖田の心許ない視界に滲み、漸く認識出来た人影の主は、もしや夢の続きかと疑う程に、意外性を孕んでいた。浮世から二、三歩退いたかのように、闇と光が融け合う狭間へ身を収めている、その人物とは、先(せん)の斎藤とのやりとりで話題の端に上っていた、山崎その人だった。
  もとより、闇を弱めている光源は、沖田より少しく離れた場所で座して本を読む、彼の手元に在るらしかった。灯を燈した行灯を小さな衝立で囲い、胡座の間に広げた書物の上のみを照らすよう、工夫を凝らしているようだ。僅かに衝立から漏れ出る光の上澄は、沖田の痛む頭と潤む眼を刺激することなく、闇に浮かぶ山崎の横顔、字を追う眼差の在処を知らしめてくれた。
  その常に無い柔らかな表情を、沖田は声をかけるでもなく、ぼんやりと眺める。そのうち、山崎の方が沖田の視線に気付き、ああ、起こしてしまいましたか、と書物を脇へ退け、沖田の枕元へ座を移した。
「夕刻から少し熱が出ていたのですが、医者を呼ぶほどでもないと思い、こうして様子を看(み)ていました」
  と言っても、頭を冷やす程度で、大した処置はしていませんがね。と、手際良く水に潜(くぐ)らせ熱を逃がした手拭を絞り、再び沖田の額に乗せる。
「…そうなんですか?…ちっとも気付かなかった…」
  沖田は時間差で鬱々と事情を解し、暗がりの中で赤面した。恐らくは、泣き疲れて熱を高めてしまったのだろう。これでは年端のいかない子供が、知恵熱で親を困らせるより性質(たち)が悪い。
  が、沖田の羞恥と悔恨に気付かない山崎は、それとは別の原因を指摘する。
「恐らく最近、微熱が続いていた所為でしょう。身体がその状態に慣れてしまうと、少々の高熱が出たところでは、それを病状悪化の徴候として拾わなくなる」
  苦笑し、何、早目に熱を下げておけば、大したことにはなりませんがね、と言い添える。
「もう一眠りすると楽になる。眩しくありませんか」
  否応なしにも依然、付き添うつもりのその問いへ、沖田が黙って頷くのを見届けると、山崎は先程の定位置、行灯の前に戻り、腰を落ち着けた。沖田への関心が失せたか、ややもすれば沖田の存在自体を忘れたかのように、ふいと書物に向き直ると、字を追う作業への没頭を再開する。
  取り残された沖田は、手持ち無沙汰と期待外れの入り混じった感を持て余し、仕方なく眼を閉じる。
「…」
  ああ、そうか。
  こちらの諦めの付く突き放し方まで心得ている。この人は病人の扱いに慣れているんだな、と朧気な意識の中で納得しながら、沖田は再び眠りに落ちた。


  一刻程経ち、沖田が二度目に眼を覚ました時には、山崎の言葉通り、先刻と比べて遥かに身体も気も楽になっていた。
  身を起こし、薄闇の中、先と同じ姿勢のままで読書に耽っている山崎に声を掛ける。
「 ―― 何の本を読んでいるんですか」
  元来の物怖じしない気質と好奇心が宿る、その声に何よりの軽快の兆しを認め、山崎は顔を上げた。大分熱が引いたようですね、と目許だけで微かな笑みを返してみせる。
「もう大丈夫ですね。…ああ、この本」
  これは以前、江戸出張の折に松本先生よりお借りしたものです、と、傍らに積み上げてある十数冊もの古書のうち一冊を沖田に手渡し、夜具の側へ座を移すと、序でに行灯を引き寄せる。二人の間の闇をやんわりと締め出した明りは、同時に辺りを近しい空気で満たした。

番外 天敵の前編三
番外 天敵の前編一
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