前編一/七 見舞いというより巡回経路の一要所であるといった気忙しさと素っ気無さで、一瞬だけ顔を覗かせた山崎の気配が、廊下伝いに遠ざかる。それでも、折り目正しく閉じられた障子の辺りに目線を留めたまま、慌しい人だな、と先客の斎藤が呆気にとられる。
それへ沖田は、何時もあんな感じですよ、と、さも愉快気に応じる。
「何時も何かしら、仕事を抱えてるようですからねえ。少しは手を抜くとかすればいいのに」
床上で半身を起こした姿勢で、山崎の残した僅かな余韻に身を浸すように笑う。不定期で瞬時の顔見世だが、社交辞令でないそれは毎度、少なからず沖田の心を落ち着かせる薬効を有していた。
元治元年七月。
病臥の為、沖田が屯所内奥の一室に隔離されてから、既に半月が過ぎている。喀血は池田屋での乱闘最中の、あの一度きりだったが、体調は未だ回復せず、己が身でありながら、ままならぬ五体へのもどかしさ、内なる敵と葛藤する日々が今尚続いていた。
「…」
ふと、会話の途切れた間を繕うように、沖田は傍らに座を占める斎藤の視線の先を辿り、午前の薄白い陽を受けて障子に映る、夏草の蒼い影に眼を止めた。ちらちらと風に戦(そよ)ぐ影絵は、そのまま奥庭より唐紙の映写幕を通過し、身を収めている布団や畳の上に揺らぎ、名残る。それは、川岸から水面へ張り出した枝葉を透かし、流水へと漏れ落ちる光の雫が、細波に溶け砂上を揺らめく様に似ている。まるで部屋全体を蒼い水の底に設えているようだと、沖田は思った。
気が付けば、日が昇り、覚醒を始めたばかりの蝉時雨までが、何故か不自然な程、彼方に在る。今日という一日の幕引きには、些か早過ぎるとすれば、現実に耳の中まで水が凝(こご)っているのか。微かに首を傾げてみるが、蝉の声は戻らず、水が抜け、鼓膜に空気が触れる吉兆も与(あずか)れない。
或いは、遠回しに沖田の聴覚に訴えかける波動の正体は、単なる耳鳴りで、元々蝉など鳴いてはいないのかもしれない。
「 ―― 真面目過ぎるんですよ、大体。だから土方さんも調子に乗って、次から次へと用件を言い付けるんです。ねえ、斎藤さんもそう思われませんか?」
そうして諦め、繋いだ言葉に殊更、可笑さを滲ませたのは、何も耳の不調を誤魔化す為だけではなかった。何時の間にか、日常の見慣れている筈の風景さえ無意識に、現実とは掛け離れた世界へ結び付けていく性向を獲得してしまった息苦しさ故でもある。その上、己を現実へ引き戻す術として、笑顔を成形する策しか思い付けない発想の貧困さにも、今更ながら辟易してしまう。
一方、そんな沖田の心境を知る由もなく、
「さて、俺は君ほど、山崎さんと親しいわけじゃないから、何とも言えないがね。まあ、それが性分となれば、それまでさね」
と、斎藤は他人事(ひとごと)の気安さで言葉を返してくる。
斎藤の無頓着な様子に沖田は内心安堵し、こちらもまた他人事の気安さで、機会があれば一度、話してみるといい、と勧めておいた。
そうして程無く、御大事に、の決まり文句を残し、地上の住人は隊務へと戻っていった。
健常な見舞い客が立ち去る都度、入れ代り訪れる、静寂と虚脱と、失望感とに慣れ親しんでしまった身を再び横たえ、沖田は息を付いた。
「…」
病人が病人である事実を容赦無く突き付けられるのが、見舞われている最中ではなく、その直後であるなどと、病とは無縁の隊士達に理解しろという方が無理なのは、重々承知している。自分も喀血前ならば、ほぼ違えることなく、彼等と同じ行動を辿るだろう。誰かが寝込んだと聞けば、枕元まで馳せ参じ、何か不自由は無いか訊ねもしようし、退屈を紛らすべく、話相手を務めもする。悪意の無い仕業だ。
だが、彼等の施す善行は、いざ施される者が孤独と対峙した時、憤りや嫉妬や、その他、地上では想像も及ばなかった負の感情の温床と成り得る。その現実からは、沖田も眼を背けることは出来なかった。結果、遣り場の無い感情は淵に淀み、それをひた隠すように平常を装う羽目となる。以前と何ら変わらぬ、否、それ以上の快活さを己に上塗りする苦痛。断ち切れない悪循環は徐々に、身体ではなく精神を先行して蝕んでいくものなのかもしれない。
「…」
無駄と思いつつ、不安を意識外へ掻い出そうと眼を閉じるのも、何時の間にか習慣付いていた。瞼を透かして広がる不安定な闇は、様々な密度のうねりがある分、真の闇よりも感覚を眩ませる。
やがて、眩暈が薄闇を、耳鳴りが静寂を助長させ、夢と現実との境を一層曖昧にする。気怠さは浮遊感に取って代わられ、今度は別の不安 ―― 剣との隔絶や生への絶望 ―― が沖田を襲い始める。身に潜む病魔は、常にあらゆる形を成し術を選び、姿を変え声を変えて、宿主を支配しようと目論んでいるものらしい。
「…」
そんな病魔の無尽蔵な手管の、何れの攻手に膝を屈したのかも判らないまま、閉じた眼から涙が溢れる。
次の瞬間、陥落した沖田の無意識は、眠り見る夢しか逃げ場が無いと悟ったのか、せめて江戸、試衛館での健やかな日々への追憶を試みる。
結果、夢路への道は難無く切り開かれたが、それすら、情け深い死神の温情に依るものか、との疑念が意識を過ぎる。疑念は過去の映像を歪(ひず)ませ、沖田の眠りを少なからず煩(わずら)わせた。