Nameless Birds
第三章   -It's A Sin To Tell A Lie-

第三章の六
作品



七/七

  ―― 飛礫(つぶて)や打根(うちね)等、古来よりの投擲(とうてき)武器に端を発し、戦国時代に独立、体系化された手裏剣術は、その特性により藩幕体制下の江戸では道場を開くことが禁止されていた。よって総合武術の一つ、裏芸や秘伝として限られた武芸者にのみ伝承されていたため、この時代でも、日常その剣技が目に触れることはまずなかった。
  しかも、隠し武術、裏武術であるため、流派間の交流や比較研究が全く成されず、故に各派独自の手裏剣の特徴は、かなり際立っている。同じ棒手裏剣でも、香取神道流や白井流のシンプルな太針状のものから、円明流の短刀型、柳生流のダーツ型、根岸流の楔(くさび)型のものまで、その大きさや形状は千差万別となる。
「一見したところ、香取神道流の剣のようですが、それより一寸程長く、尾部の削りも比較的少ない。景明(けいめい)流の特徴だそうです」
  景明流 ―― 通常の投剣術もさることながら、手の中に隠し持ち、剣術や居合術に組み込むことで威力を発揮する併用技では、その完成度において、他流派と完全に一線を画す、手裏剣術流派の一つである。が、それ故に卑怯、邪道の技であり、卑しく武士道を外れる、との謗りは免れず、既に江戸初期、幕府直々の命により廃絶された幻の流派、というのが武芸者の間では定説となっている。
  だが現実には、その実用性と危険性に注目した幕府は、隠密の任に就く目付けや庭番、鳥見等のごく一部に、秘密裏に習得、継承させていた。つまり、表立っては手裏剣術に対して一貫、否定的なスタンスを保つ一方、裏では景明流を内部に抱き込み、諸藩統治の手駒の一つとして活用していたわけである。
  山崎より剣を手渡され、代わりに斎藤は、せめてもの苦笑を返してみせる。
「私の素性が、そんなに気になりますか?」
「まさか。単に保険を掛けただけですよ」
  心中するというのはつまり、そういう事でしょう。
  山崎の言葉に、迂闊なのは己の方だったと、斎藤は改めて思い知らされる。
  幾ら秘密や行動を共有しようと、この男の繰り出す共通言語は所詮、信頼ではなく打算でしかないのだと。
「流石に公儀隠密、隠し目付けともなると、武芸十八般に秀でていなければ務まらないものですか」
  隠し目付け(御小人目付け)とは、その名の通り目付け支配系列の職であり、御徒目付けの下、実際の諜報活動、つまり諸藩現地での隠密調査を担当する。秘密職であり、業務の毛色は庭番と同じようなものだが、庭番は将軍直属の諜報要員であり、旗本や御家人の監察である目付けを、更に監察するという性質を帯びている点で、些か立場が異なる。
「単に齧っている程度ですよ。大して役に立つというものでもない」
「ですが、得物として懐に忍ばせておくには、些か物騒ではありませんか」
「あのですね」
  言葉の駆け引きは嫌いじゃないが、それは相手と五分五分の形勢を保っていられる条件下での話だ。遊びの要素を伴わない限り、言い負かすのも負かされるのも、只面倒臭い。
「使いこなせるかどうかは別として、武家が手裏剣を携帯すること自体、そう珍しくはないんですよ、特に昨今は。ちょっとした護身具にはなり得ますからね。それに、こいつを見て景明流を連想させる輩なんざ、今時いやしません。現物は一切、外に出回っていないんですから、せいぜい、あんたの言っていた香取か、白井、知新辺りと目星を付けるくらいが関の山だ」
「…」
「観念ついでに吐いときましょう。私は江戸でヘマをやらかして、とうに御役御免となった身だ、またお呼びが掛かりでもしない限り、今は目付けでも何でもない、あんたと同じ、新選組隊士です。それ以外の何者でもない。
  今後、隊内の情報が公儀方へ不審な洩れ方をしたならば、真っ先に私を疑えばいい。それくらいの保証があれば、あんたも安心して動けるでしょう」
「保証がなければ動けない、とでも言いた気ですね」
「へえ、あんたでも気に障りましたか?だと有り難いんですがね。」
「…」
「 ―― まあいい。あんたが私の出自を握ってまで、この件に縛り付けておきたいのならば、とことんまで騙されようし、付き合いもしようじゃありませんか」
  それであんたの気が済むんならね、と斎藤は山崎の方も見ず、夜分遅くに押しかけて申し訳ない、と腰を浮かそうとする。
「 ―― 明晩、亥の刻」
「は?」
  山崎もまた、斎藤の方を見ずに言った。
「五条大橋袂より上方へ発ちます」
  まるで、今まで雨に打たれていたのは山崎の方であったかのような顔色。欺かれていたのは山崎の方であったかのような、虚無の表情を見てしまい、それは卑怯だろう、と斎藤は思う。山崎が先手を打つばかりで、こちらの攻手がことごとく封じられるとは、情けないどころの話ではない。
  隠密業から遠ざかって以後、ある意味、ぬるま湯の日常に浸り切っていた己への苛立ちと、とうの昔に葬り去った筈の、地縁という名の情報網を掘り起こした事への後悔とを嫌悪するのが、今は精々だというのに。その上、垣間見えた山崎の心情に翻弄される余裕など、有る筈もない。
「 ―― 解りました」
  それだけ口にし、退出しようとする斎藤の背中越しに、
「一つ、忠告してよろしいですか」
と、山崎が声を掛ける。
「まだ何か」
  のろのろと振り返る斎藤へ、
「女の元を梯子する時には、せめて前の女の気配は消すのが、礼儀です」
「!?」
「そんな変な顔をしないで下さい。べつに尾行したわけじゃありませんから」
  先程の君の着物に、二種類の香の香りが移っていたもので、と説明する山崎の表情は、平素のそれに戻っている。細波一つ、波紋一つ無い鏡の如き水面の下で、常に戦闘態勢を敷いているような表情。それを大概の人間は、無表情と解釈するのだろうが。
「匂いが残れば気配も残る。女の嗅覚は男より鋭いですからね。何時か夜道で刺されますよ」
  まあ、その時にはせいぜい、綿密な死体検分を執り行わせてもらいますがね。
  口調は真剣だが、珍しく目元が挑発的に、僅かに和らいでいる。器用な男だ、と思いながら。
  だが、例え相手が野郎でも、傷付いた顔で見送られるよりは百倍マシだ、とも思いながら。
「 ―― 御忠告、痛み入りますよ」
  ―― 打算から紡ぎ出された言葉で最後を締め括ったのが、山崎のなけなしの譲歩だと気付いたのは、斎藤が自室に戻り、暫くしてから後のことだった。


第三章の六
作品