魔法使いの弟子
不言不伝(いわずつたえず)

不言不伝(いわずつたえず)の二
作品



三/三

「…」
  通りに残された山崎は、仕方なく道の端に移動する。提灯の灯を一つに絞り、人家の軒に身体を寄せて気休めに風を避(よ)けた。人の通る気配は無く、静けさと寒さが紐目の如く絡み合い、生き物のように足先から徐々に身体を這い上る。動いている分には然程(さほど)気にならなかったが、今となっては尾形の言う通り、この天候は十月の域を遥かに越えていると認めざるを得ない。仕事柄、待つ身に慣れているとはいえ、持ち主の温(ぬく)みを移した羽織の押し付けは、不本意ながら今の山崎には有り難かった。
「…」
  それにしても。こんな見え透いた茶番で、未だに所業をはぐらかしているつもりなのだろうか。山崎は再度、嘆息する。
  只、酒を購(もと)めに赴くだけであれば、提灯や羽織を置いて身軽になる必要は無く、それ以前に、わざわざ己と行動を違える必要も無い。
「…馬鹿々々しい」
  山崎の呟きは溜息同様、白く凝(こご)ると、一時(ひととき)空に留まり、空に消える。
  ―― 新選組隊士の身でありながら、隊とは異なる世界で生き、異なる組織に属し、異なる軌道を動く斎藤は、生まれながらの賞金首である。命を付け狙われる習慣にあっても自ら攻撃に転じることは無く、降り懸かる火の粉を払うように刺客や賞金稼ぎを斥(しりぞ)けるだけだが、それでもこの男の周囲は常に殺気と血の匂いで賑わしい。隊士と賞金首の二重生活は、血で血の跡を消すようなもので、不毛なばかりか一欠片の救いも無かった。
「や、寒い中、お待たせしてすみませんね」
  案の定、縄に絡げた徳利を提(さ)げ持つ斎藤が程無く姿を現すと、新たに物騒な匂いが夜気に加わり、山崎の鼻を掠めた。汲み出したばかりの樽酒の香に、流れ出たばかりの血の香が微かに溶け、絶妙な塩梅で一つに合わさる。酒と血という、斎藤を形成する二大要素が闇の中で具現化し、当人以上に斎藤の存在を主張していた。
「…」
  また殺してきたのか、と山崎は胸中で呟く。口にしない分、行き場の無い言葉は、軒を伝う雨滴のように心の奥底の脆い地盤を正確に狙い、穿つ。
  これまでにも同じような状況は幾度かあった。今回も、恐らく斎藤は一滴の返り血も浴びず、刀身を丹念に拭(ぬぐ)い、玄人の手際で完全に身辺から殺傷行為の形跡を消して戻って来ているのだろう。が、他の隊士には充分でも、薬を扱う故に人並み外れて嗅覚鋭い山崎に、その程度の隠蔽は通用しない。
  一方、斎藤は山崎から提灯と羽織を機嫌良く受け取るも、
「今日はツイてましたよ。前々から飲んでみたいと思っていた銘酒が、偶然、樽底に少しだけ残ってたもんで…?どうしたんですか?」
  不意に首を傾げると、再び点した灯を近付け、山崎の顔を覗き込む。
「顔が ―― 」
  やれやれ、今度は何だ、と山崎は眉を潜める。
「未だ怒っているように見えますか」
「いや、辛そうだ」
「 ―― まさか」
  元々こういう顔です、と断ち切るように突き放す。今度は斎藤も深追いせず、
「 ―― そんじゃ、行きますか」
と、誤魔化すようにくるりと山崎に背を向け、再び歩き始めた。


  斎藤の案内の末に辿り着いた先は、家並が途切れ、田畑や竹林が目立ち始めて程無く、山麓に突き当たる細道の脇に建つ、小さな荒れ寺だった。
「…ここですか…?」
  蔦や苔が門や塀に蔓延り、背後より迫る山の木々が津波のように敷地全体を覆い隠している。昼間でもこの建物の存在に気付くか疑わしい程の荒廃振りが表からでも見て取れ、山崎は唖然とする。
  そんな山崎を無視し、斎藤は閉鎖された山門の横、崩れ掛けた土塀に申し訳程度に打ち付けられた板を外し、人一人がやっと潜れる大きさの穴を確保すると、平気で中へ入って行く。結局は不法侵入か、と諦め、山崎も後に続いた。
「こいつをね、あんたに見せたくて」
「…!?」
  斎藤の声に顔を上げると、そこで二人を迎えたのは、狭い境内で眼一杯枝を広げる、一本の桜。樹齢は優に百年を超えているだろう巨大な古木が、寒風吹き荒ぶ中、花を付け闇に佇んでいる。しかも満開、季節外れの狂い咲きではなく本咲きなのが、素人目にも明らかだった。
「…寒桜ですか…」
  予想外の光景に、山崎は只、息を飲む。
「ええ。しかもこいつは数年に一度、秋冬にしか花を付けない珍しい品種でしてね」
  ―― 春の花の代表格である桜だが、中には十月桜、冬桜、四季桜など、秋から冬にかけて花を咲かせる品種も存外多い。が、これらの桜は基本的に、春にも開花し、そちらが本咲きとなる。
  今年は丁度、当たり年らしくて、と山崎の隣で、斎藤も桜を見上げる。
「…」
  春の桜は、霞か雲かと空を覆い尽くさんばかりに豪華絢爛咲き誇り、愛でる者を圧倒し、心を妙に騒(ざわ)めかせる。だが、冬の桜の、闇の中に白い小花がとつとつと咲く様(さま)は、宙(そら)に瞬く星に似ている。木そのものが、愛でる者をその懐に抱え込み、心を癒す、一つの小さな宇宙のようでもある。一瞬で散り急ぐ気忙しさ、名残惜しさは無く、有るのは只、優しさと、孤独故の哀しさだ。
「…」
「本当は、こんなに寒くならないうちに連れて来たかったんですがねえ。まあ、こんな花見も、たまには趣向が変わって良いでしょう」
  本堂の脇へ移動し、腰を落ち着ける場所を選びながら、この分だと、雪見酒になりそうですがね、と何気に笑う斎藤。
「え?」
「雪ですよ、雪。もうすぐ降ってきますよ」
  そういうのって、何となく分かるものでしょう。上手く説明出来ませんが、大気の中に雪の気配が混じってる感じ、とでも言いますかね。斎藤は提灯を軒に固定し、適当な石組みに腰を降ろすと、懐から杯を二つ取り出す。
「 ―― 」
「あ、呆れてるでしょ。何て非科学的なコトほざいてるんだ、とか思ってる顔だ」
「…君は何でも顔で判断するんですね」
「あんたは何も言わないからねえ」
「君だって、肝心な事は何一つ言わない」
  山崎は斎藤に並んで座ると、黙って杯を受け、酌を受けた。手元から立ち昇る酒の香と、周囲の花の香、雪の香で薄まってはいるが、まだ確実に血の香は斎藤の動きに合わせて揺らぎ、山崎の意識に絡んでくる。
「…」
  だが、言ってどうなるものでもない。斎藤が物騒で危険な事件に巻き込まれるのではない、斎藤自身が物騒で危険な存在とあっては、本人にすら成す術が無いのである。
  ―― 私闘は法度により禁じられており、それを続ければ隊規による死が、止(や)めれば敵による死が、どちらの道を選ぼうと先に待つものは同じである。ならばいっそ、末路までの距離を引き伸ばす可能性が残されている分、前者の道を選ばせたいという思いは、単なるエゴでしかない。何も言わない代わりに何も言わないで欲しい、その願いは即ち、監察の任への裏切りであり、隊への裏切りだ。
  ならば。何も願わないでいようと思う。
  何も言わず何も伝えず。それで構わない。
「…」
  言わずに伝わる事もあれば、言って伝わらない事もある。
  だが現実には、斎藤の言葉通り、言わなければ伝わらないのが世の理(ことわり)だ。
  何も言わない者同士が寄り合えば、伝わる事など何も無い。以心伝心など、所詮は架空の産物、夢の戯言(たわごと)。人が人に対し伝える事、出来る事は何も無いのに、人は懲りずに架空を描き、夢に遊ぶ。
  それでも。人は愚かだから。
「…私も、雪が降ると思いますよ」
  ―― これくらいならば言っても許されるだろう、と思う。山崎が隣を覗うと、斎藤は眼を細め、礼を言うような眼差で応えた。
「…」
  山崎は、つと眼を逸らし、桜から上空の雪雲へと視線を移すと、
「 ―― 酒に、花に雪に…あと、足りないのは月くらいですかね」
  流石にそこまでは望めませんが、と苦笑する。
「月ねえ…月なら私の横に存ますがね」
「…」
「や、冗談ですよ、冗談…怒ってます?」
  斎藤の焦りを無視し、寸の間、山崎は真面目な面持で考え込んでいたが、
「…いえ。ちょっと勉強になりました。成程、そうやって女性を口説けばいいんですね」
  今度、何処かで使わせて貰いますよ、と笑ったので、釣られて斎藤も笑った。
  やがて、二人の思惑通りに、ちらちらと雪が舞い始める。
  花と雪が闇に浮かぶ。宴は始まったばかりだ。

不言不伝(いわずつたえず)の二
作品