三/五 ―― 『卵』は根付の意匠として好まれる題材の一つだ。滑らかな外殻のフォルムと質感は、掌に収まる心地が良いのに加え、大抵は殻の内側に彫りを施す為、使用時に衣服や帯生地を傷め難いという利点もある。根付は彫りが精緻になればなる程に尊ばれる傾向はあるが、繊細過ぎると、今度は実用性に問題が生じてくるのだ。他にも、大きさと形のバランスや、360度どの角度からの観賞にも耐え得る立体形状、意匠自体の物語性、紐穴の開き具合、提げ物との相性、帯から提げた際の気色など、存外、根付の作製には制約が多く、条件の兼ね合いが難しい。小さな彫刻物に穴を開けて紐を通せば、それで出来上がりという、単純なものではないのである。
さて、斎藤が一目で惚れ込んだという卵の根付、材は象牙で銘は一玉(いちぎょく)、江戸中期の牙彫りの名工の作である(江戸後期まで、根付師という専門の職人は存在せず、根付は専ら、欄間師や仏師、入歯師等が、本業の片手間に製作していた)。一般に、卵の中に住まう生き物として人気が高いモチーフは烏(からす)天狗だが、一玉が殻の内側に彫り収めたのは、『烏』ではなく『鷺(さぎ)』。殻の三分の一程が欠け、そこから中を覗くと、一羽の白鷺が水辺に蹲(うずくま)り、長い首を優美に曲げて微睡(まどろ)む構図を拝める仕掛けだ。
微風にさやぐ葦葉に抱(いだ)かれ、羽を休める鳥の見る夢に思いを巡らせる内に何時しか、鳥の見ている夢が己の姿か、己の見ている夢が掌に在るのか、そんな幻惑にすら駆られる。まるで日本画の絵師が目指すところの情景世界を、掌大に凝縮、昇華させた彫り師の技量に魅了された斎藤は、以降、店の主人に呆れられ、煙たがられるも構わず、暇を見付けては足繁く店に通った。片恋に焦がれる逢瀬の都度、購(もと)めはせずに只、店先で手に取り、ためつすがめつ眺めていたという。
ところがつい先程、夕刻勤務前の空き時間を利用し、何時ものように店へ顔を出すと、主人から開口一番、急変事を告げられた。丁度今しがた、件の根付が売れてしまったというのだ。
「で、がっかりした斎藤さんを不憫に思い、店の御主人が、代わりにこの卵を呉れたってわけですか?」
「まあ、気味悪くて、厄介払いしたかっただけってのが本音だとは思いますがね。その根付になりそこないの卵の方も、一玉の作だそうです。尤も、銘が入ってるわけじゃなし、大方、主人のガセでしょうが」
斎藤は苦笑し、何とも締まらない話で、と卵の由緒を披露し終える。
「成程、それで、この卵のからくりを専門家の河野さんに解明して貰うつもりだったんですね。 ―― でも、もしこれが本当に一玉さんの作った卵だとしたら、中に存るのは白鷺かもしれないって事じゃないですか?そう考えると、何だか夢がありますね」
今にも殻の表面にひびが入りはしないかと、吉村は己が手の内に在る作り物の卵へ、雛の誕生を待ち侘びる親鳥さながらの穏やかな視線を注ぐ。
「ちなみに、本命の根付は幾らやったんですか?」
続く河野の現実的な問いに、斎藤が答えた言い値に対し、
「へ?何や、目ん玉飛び出るくらいの値段か思たら、そんだけ?」
「うーん…古物に興味の無い者からすると、確かに根付としては高額ですよね。適正価格の見当が付かないので、何とも言えませんけど。でも…」
「旦那やったら、ヒラ(=平隊士)でなし、妾(おんな)囲てるわけやなし、遊所通い、何回か我慢したら払えん額やないでしょう」
二人は今一つ、釈然としない表情を浮かべる。
「それが出来るくらいだったら、苦労しませんがね」
「うわ、これや」
「はあ、斎藤さんらしいですけどね」
斎藤の平然とした物言いは河野と吉村を存分に呆れさせたが、同時に納得させもした。それ程に、斎藤の女好きも又、甘物嫌いと同様、この監察部屋界隈では自明の理として浸透しているのだ。
「ほんでも、そんな通い詰めるくらい気に入ってたんやったら、何で無理してでも、さっさと買(こ)うておかんかったんですか」
「ん、まあ、欲しくなかったと言えば嘘になりますが…だが、いざ購(もと)めて手元に置いても、どうも扱いに困って、持て余してしまいそうでね。実際、値段に手が届くか届かないかの問題じゃないんでしょう。高嶺の花は眺めるだけでいいもんでして、手折って枯らしては元も子もないわけで」
只、惜しむらくは、もうちょっと眺めていたかったですがね。こんなに早く売れてしまうとは思わなかったんで。
「ま、そんなところです」
「そっかあ…何だか、一期一会のロマンって感じですねえ。切ないなあ」
「いやあ、解らへんわ。俺やったら、一旦、欲しい思たモンは、どんな手ぇ使(つこ)てでも手に入れますけどね。それが人情てもんでしょう」
吉村が感傷的な微笑を湛(たた)えるのと対照的に、河野は呆れ顔で天井を仰ぐ。
そこへ不意に、
「それは勿論、根付のことを言ってるんでしょうな」
箸の先端に突き刺した饅頭を炭火で炙りつつ、島田が予測不能な方角から、ぽんと三人の遣り取りの場へ言葉を投げ入れてくる。
「 ―― 」
一瞬、不覚にも呆気にとられた斎藤だったが、
「 ―― 勿論、根付のことを言ってるんですよ」
辛うじて、太々(ふてぶて)しい苦笑を手放すことなく、言葉を無加工のまま投げ返す。やれやれ、ダンマリに徹していたものを、今更ここで尻尾を出してくるかねえ、と、尚も卵より饅頭に御執心の男を改めて見遣った。
新選組が『組織』としての体裁を取り繕い始める過程、第三者機関としての監察部立ち上げに際し、構成員として土方が最初に白羽の矢を立てたのが、この島田魁だ。隊屈指の剣客である永倉をして、『沖田、斎藤と並んで敵に回したくない隊士』と言わしめる程の腕の持ち主であり、居合の達人でもある。
斎藤は当初、島田を市中見廻りの第一線から退かせ、探索業という裏方に回らせた土方の人事に、不審を抱いていた。諜報活動の定法に照らし合わせても、体躯同様、島田の大らかで大雑把な性質に、密偵としての適性を見出せず、所詮は素人の思い付きか、と侮(あなど)っていたのだ。が、時が経つにつれ、斎藤は土方の眼力と采配に対し、感服を通り越して薄気味悪さを感じるようになっていた。大型草食動物を思わせる呑気さ、寛容さと年の功、そして不可思議なカリスマ性で、島田は曲者(くせもの)揃いのこの集団を、ものの見事に取り纏めている。これこそ土方の思い通りの展開であり、斎藤の予期せぬ展開であった。
そして現在。型通りにしか物事を捌けず、本域を見抜けなかった当時の自分を振り返るだに、斎藤は寧ろ可愛らしいとさえ思う。
「 ―― 他に何かありますかね、島田さん」
「いえね…あ、こりゃ駄目だ、あーあ…やっぱ饅頭だと、上手い具合に焦げ目が付きませんな。直ぐ黒焦げになっちまう」
「それだと皮が薄いし糖分が多いから、餅を焼くようにはいかんでしょう」
「仰る通り…いえね、いっそ楠(くすのき…樟脳(防虫剤)の原料)で拵えた根付でも持たせようかと」
「楠?黄楊や黒柿でなく?」
「悪い虫が付いてからじゃあ遅いからね」
「ははあ。そりゃま、樟脳の根付じゃあ、虫もそうそうは歯が立たないでしょうなあ」
島田の揶揄に、斎藤はあくまでも素っ恍け、肩を竦めて白々しく往(い)なす。そもそも、真っ先に土方の眼鏡に叶った男の底意地が悪くないわけがないのだ(尤も、これは監察方ほぼ全員に当て嵌まる特質ではあるが)。家族サービスと問題児教育以外、娯楽の乏しい中年の暇潰しに、これ以上、付き合わされるのは堪らんなあ、と引き揚げ時期を察した斎藤は、よいしょと腰を上げる。
「そんじゃあ、ぼちぼち俺はこの辺で。御馳走さんでした」
「へ、もう帰んの、旦那?」
「もっとゆっくりしてきゃあいいのに。そろそろ帰って来る刻限だと思いますがね」
ここで初めて、島田は饅頭から目線を外し、顔を上げた。退散する斎藤への御見送り、手向けた笑顔の器に盛られているのは、多量の余裕と少量の牽制、そして、やれるもんならやってみな、という微量の挑発。
「…」
…やれやれ。
少しは気が紛れるかと、斎藤は先の河野を真似て一瞬だけ天井を仰いでみたが、期待した程の効果は見込めない。
「!?あ、斎藤さん、待って下さい、忘れ物ですよ、ほら」
障子に手を掛ける斎藤に、慌てて吉村が象牙の卵を差し出すのへ、
「そいつは吉村さんに差し上げますよ、饅頭の御礼です」
肩越し、せめてもの意趣返しとばかりに監察方へ厄介払いを押し付け、斎藤はそそくさと部屋を出て行った。