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自分に理想をおしつけて。
心に夢を閉じ込めて。
君は何を得たんだい? (「求道(きゅうどう)」 凛 作より)三月初旬。ある小春日の昼下がり。
土手の斜面に寝転び、煙草を燻らしながら書を読み耽る山崎の姿を前方に捉えると、佐原は一目散、突進する勢いで駆け寄った。
「おいっ!」
「ん?」
手から書物を、口から煙管を引っ手繰り、山崎の襟元を掴む。
「あんたっ、こんなトコで何やってんだっ!?お嬢さんの見送りにも来ないでっ!」
「行ったか、響」
「とっくだっ!出立間際まで、あんたの姿探してたんだぞっ、お嬢さんはっ!」
そうか、行ったか、と山崎は、佐原の手をひょいと襟から外すと、身を起こした。放り出された書物と煙管を再び手元に引き寄せ、中断させられた所作に戻る。
「山崎さんっ!」
そんな大声出さなくても聞こえてる、ギャンギャン吠えるなよ、と頁の下からやんわり諭され、佐原は心ならずも気を外される。山崎を探し回ってからここへ辿り着くまで、頭の中に用意し溜め込んであった文句の弾丸をいざ連射しようにも、口の端に装填出来ないのは毎度の事。
ほら、またこのヒトのペースだ。佐原は仕方なく、山崎の隣に腰を降ろした。
「…」
初春の柔らかい陽射しが、新芽の息吹き初(そ)める地表を暖めている所為か、座ると水際特有の風の冷たさが気にならなくなる。地熱の蒸気が、足裏から体内へじんわりと注入、逐電されていくようで、時折の雲の通過で日が翳っても、身を竦ませる必要が無い。
また、水量豊かな眼下の淀川は、まるで冬眠から覚めやらぬ大蛇の長閑さで、のたりと大海向かって伸びている。
何とも居心地の良い場所を見付けたもんだなあ。佐原は素直に感心し、隣で相変わらず蘭学書にご執心の男に視線を転じた。
佐原にとって、否、瀬田塾の塾生全員にとって、この山崎というのは謎の男だ。
塾内では珍しい生粋の医家の出であり、塾長・瀬田松雲の甥であり。そして時に、瀬田の代行として診察に駆り出される程の腕、知識、経験を持つ医者でありながら、他所に医家の看板を掲げるでもなく、実家に戻るでもなく、瀬田の補佐や塾生の世話、塾内の雑事等々、瑣末な諸仕事に何故かな日々明け暮れている。
入塾して未だ二年足らずだが、学ぶべきことを学んだ暁には一日も早く帰郷し、医療の未発達な里で診療所を開きたい、の一念で、医学、蘭学の研鑚に励んでいる佐原には、その神経が理解出来ない。医家として独立出来る水準に達しているのは、半人前の自分の眼にさえ明らかだというのに。
まあ、俺には関係ないけど、と佐原は空を見上げた。
「…いい天気だなあ」
「そうだな」
独り言のつもりが、意外にも隣から反応が返ってきたのに、佐原は単純に気を良くする。先程までの御立腹も何処吹く風と、山崎に話し掛ける。
「なあ、お嬢さん、四年は帰って来ないんだよな」
「恐らくな」
「あーあ、長崎か、遠いなあ」
「かなりな」
「お嬢さん、可愛いよなあ」
「 ―― 可愛いかあ?」
「そこで疑問形になるかよ、そこで」
眉根を寄せる山崎に、佐原は思わず向き直る。
「俺には、単なるジャジャ馬にしか見えんがな」
「そりゃ、あんたの目が節穴なだけだ」
節穴ねえ、と山崎は頁を繰る。
「そうだよ。まさか、お嬢さんの居ない生活を送らなきゃならない日が来るなんて、俺達の落胆がどれほどのモンか分かりますか、くそっ ―― 大体、あんたが長崎遊学の話を蹴るから、お嬢さんが代わりに行っちまうことになったんだぞ。あんたの所為だっ」
「矛先がそう来るか」
「何で蹴っちまたんですか。医術を志すヤツなら誰だって、一も二もなく飛び付く話でしょうに」
「そうだな」
まあ、魅かれる場所ではある、と山崎は身を起こした。シーボルトの残像が、未だ辛うじて輪郭くらいを留めてはいるだろうからな。
書物を脇に退け、煙管から灰をぽんと叩き出すと、手馴れた仕草で火皿に刻み煙草を詰め直し、火を付ける。
「 ―― お前は、良い医者になるんだろうな」
春風に上手く煙を乗せ、宙へ放ちがてら山崎は言った。
「!?な、何だよ、いきなり」
「俺には到底無理だがな」
山崎の言葉に、佐原は赤面したまま反論する。
「!?な…何、寝惚けた事言ってんですか?そんなの逆じゃないかっ。俺なんてまだまだ、この先モノになるかどうかも分かりゃしない半人前だってのに…それにひきかえあんたは、その若さでもう立派な医者ときてる。先生にも塾生連中にも信頼されてるし、あんたの診立ては確かだっつって、患者の間でも評判だし。正直俺達は、あんたが何だって早々にお嬢さんと一緒になんないのか、不思議で仕方ないよ」
誰もあんたを若先生と呼ぶのを、嫌がるヤツなんていやしないのに。
「ハハハ、若先生とはよく言ったもんだな」
そいつは面白い、と人事のように笑う山崎にムッとしながら、
「おい、笑うなよ、俺は真面目に話してるんだぞっ!?」
佐原は鼻先であしらわれているのを承知で、尚も食って掛かる。
「おいっ、笑うなってばっ。 ―― とにかく、だっ。そこまで医者に必要な何もかも持ち合わせておいて、何が到底無理なのか、答えてもらおうじゃないかっ!?」
ムキに詰め寄る佐原に苦笑し、山崎は、そうだな、と考えるふうに細く長く煙を吐く。
そうして行き着いた答えは、ごく単純なものだった。
「 ―― 満たされんからさ」
「何だって?」
「まあ、これという理由はないんだが。強いて言うなら、そうだな…つまらん、物足りん、二十四時間不規則重労働で女と遊ぶヒマも無い、の割に実入りは今一つで、やたらと博愛魂を強いられるわ、医療ミスに神経すり減らすわ、業務用スマイルで顔が強張るは、上にも下にも患者にも気を遣うわ…それくらいしか思い浮かばんが ―― 」
と、山崎が言い終えないうちに、
「バカにすんなっ!」
―― 佐原は有りっ丈の怒りを込めた雄叫びを、山崎の鼓膜にお見舞いすると、踵を返し帰って行った。
別に、バカにしたわけじゃないんだがな。
耳鳴りから解放され、新たな煙草に詰め替えた山崎は、再び煙を燻らす。
「…」
どれだけ多くの患者に必要とされたところで、本当に大事な人間に必要とされなければ意味が無い。
どれだけ多くの人間を幸せにしたところで、本当に大事な人間が幸せにならなければ意味が無い。
このまま道を逸れなければ、数え切れないほどの有形無形の何か、普遍に価値のある何か ―― 社会的地位や名声、羨望、信頼、満足感 ―― を得ることが出来る。だが、本当に欲しい何かが、たとえこれまで得た大海の水の、僅か一滴に比したとしても、得られなければそれは、何も得られないのと同じことだと。
知ってしまって満たされない空虚は所詮、煙草の煙で埋まるものでもないのだが。
「…」
今は只、この空の下、遠国への旅程にある彼(か)の女(ひと)の幸せを、耐えるように祈るだけだ。尤も近しく尤も遠い、彼の女の。
「…」
吐く煙は刹那、綺麗な欠片の顔をして光に寄り添い、春靄に溶ける。
三月初旬。ある小春日の昼下がり。
終
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