・番外 桜その一の五へ六/六 あちこちを探し回った挙句、結局ヒビキを見付けたのは夕方、最初にヤツと出会った長柄(ながら)橋袂の土手だった。
ヤツは、俺が寝転んでいたのと同じ場所に膝を抱えて座り、今日も繰り広げられている川浚いを無表情で見下ろしていた。今回の遺体引き揚げに関して言えば、観客動員数はそれほどでもない。ヒマそうな野次馬がちらほら、橋から身を乗り出しているだけだ。仏は世間に見放されたか、よっぽど話題性に欠けるヤツなんだろうかな。
俺はヤツの側まで駆け下りた。
「おい」
―― ヒビキは振り返り、俺と気付くと眩しいものを見るように眼を細め、再び川面に視線を移した。
「売れたやろ、薬。全部」
「あ、ああ」
「ほな、さっさと江戸へ帰り」
そう言い捨て立ち上がり、着物に付いた草を払うとヒビキは歩き始めた。
「おい、待てよ」
ヤツの後を追いかけ、肩に手をかけると強引にこちらを向かせる。
よく見ると、今朝には無かった擦り傷が、顔や腕にできていた。
「ちゃんとこっち見ろ。あの仏さんは ―― 」
「上客が一人減っただけや、大したことあらへん」
「…」
「結構エエ人やったんやけどな、荒れてへんときは。気前良かったし、上手いモン喰わしてくれたし、仕事の話とかもようしてくれたし」
「…」
「昔はな、道頓堀でも一、二を競う花形やったんやて。パトロンも仰山いてて、出る興行どれも当たって…今では見る影もないけどな。この辺のウラ寂れた芝居小屋で、出とうもない三流芝居に駆り出されてたわ、昔の威光で客引けるいうてな」
まあ、それも限界やったんやな。酒で身を持ち崩して暴れるようになって。それでも飽き足りんと、最後には阿片にまで手ェ出しよって、とうとう橋から飛び降りてしもた。
「死ぬ時は呆気ないもんやなあ。ま、けど、あれで良かったんかもな。この世に居てても、あの人にとっては地獄が続くだけや…」
「…」
十かそこらの子供が、悟った顔して言ってくれるなよ、そんな台詞。俺は無意識にうなだれ、片手で眼の上を覆った。
「!?うわっ、何や兄さん、泣いとるんか?」
「違うっ!」
違う。やり切れねえだけだ。
「ふーん…ほな、俺行くわ」
そうしてヒビキは俺の手を振り払い、先に進もうとした。が、
「!?」
不意に引き返し、俺の背後に身を潜める。
「…?」
俺はヒビキの進行方向、視線の先を追い、一段高い土手沿いを続く道に視線を流した。だが、そこには何も、ガキがビクつく対象になるようなモノは見当たらないように思えた。様々な階級、様々な風体の人の行き交う姿が在るだけで、混乱や恐怖とは無縁の光景だ。おい、見てみろよ、あの家族連れなんて、どっから見ても平和そのもの ――
「…?」
そいつら ―― ごくありふれた父親と母親と、小さな娘、の三人 ―― に眼が止まったのは、その娘っ子の年恰好が、丁度ヒビキと似ていたからだ。
娘は父親と手を繋ぎ、声高に何事かを懸命に話しているようで、時折真剣に父親が相槌を打っている。数歩後ろから、母親が娘をハラハラした表情で見守っている。
その家族連れが俺達の横を擦れ違った時、母親がその娘の名を呼んで嗜めた、もっとおしとやかに歩きなさい、帯の結びが緩まってしまうから、と。
「折角こしらえた晴着が台無しやないの、響、そんな大股で歩くもんやない。ほら、裾に泥が跳ねるわ」
「そやかて、父はんと並んで歩こ思たら、そんなこと言ってられへんわ。なあ?」
―― 響?
俺は背後に視線を向けた。ヒビキは俺の着物をぎゅっと握り締め、まるで嵐が過ぎ去るのを待つように身を堅く縮めている。
三人が通り過ぎ、見えなくなっても未だ、ヒビキは俺の後ろで固まったままだった。
「おい、行ったぜ」
「…」
俺は彼等の見えなくなった道の先を、ぼんやりと眺めた。
事情は分からねえが、一つだけ…あの娘っ子、顔立ちがこいつとよく似てやがったな。
「 ―― 大丈夫か」
仕方ねえな、と、ヒビキの強張って冷たくなった指を、少しずつほぐし開いてやりながら、声をかける。
「おい」
大丈夫かよ、膝が震えてっぞ、こいつ。
「…あ」
「ん?」
暫くして、まるで蘇生したてのような、絶え絶えの息の下から、ヒビキがか細い声を搾り出す。金の繋がりだけではなさそうな、近しい人間の死にも、顔色一つ変えなかったこいつが、今じゃ蝋より硬く白くなっちまってる。
「…なあ、兄さん、あの子、さっき通ってった子、幸せそうやった…?」
「…?ああ」
「ほんとか?ほんとにそう思うか?嘘やない?」
必死に念を押すヒビキに、
「ああ、思う」
「そっか、よかった…」
ヒビキはふうと細く息を付き、気が抜けたのか、その場にへたと座り込んだ。
「よかった…」
出来損ないの安堵の笑みを浮かべる。
「…よかった、んかなあ…?」
自分の眼から零れる涙の意味を否定しようとしているのか、なお食い下がり笑おうとする。
「…」
こいつ ―― 。
俺は地べたに胡座をかいた。往来だからって、構うもんかよ。
「 ―― お前、俺と一緒に江戸へ行くか?」
「…」
ヒビキは下を向いたまま首を横に振る。
返事が否の理由に、今の出来事が絡んでいることくらいは、何となく察しが付いた。
こいつには、他人の俺には考えの及ばねえような、複雑な事情があるんだろう。ここに留まっていなきゃならねえ事情が。
それならそれで、無理強いはしねえ。
俺はヒビキに手拭を差し出した。
「 ―― お前、医者になりたいのか」
「…」
「俺は、武士になりたい」
「…?」
ヒビキは顔を上げ、俺を見た。
俺はほれ、と両手の竹刀だこを見せる。
「村の連中には馬鹿にされてっけどな、なれるわけねえ、寝惚けたことぬかしてねえで、百姓仕事に専念しろっつって。けど、ま、お前も言ったように、ヒトの思い込みってのは、何かしら力があるもんだからな、馬鹿げた思い込みでも、万に一つ、機運を引き寄せるかもしれねえだろ?」
「…」
ヒビキは眼を瞬かせる。何を言うてるんや、この兄さん。
「…やん」
「ん?」
「そんなん、なれるわけないやん。百姓は一生百姓やし、町人は一生町人やし、そんなん無理や…」
「おいおい、情けねえコト言ってくれるなよ、上方モンが。太閤秀吉だって、元は足軽、殆ど百姓の倅のようなもんじゃねえか」
「…」
「無理かどうかは自分で決めるもんだ。お前に、今の生活をやめろなんて、軽々しく言う気はねえ、だが、自分を粗末に扱うのだけはやめな、そうしねえと、他人もお前を粗末に扱うようになっちまうからよ」
「…」
「あ、それと、まだ礼を言ってなかったな、薬のけ ―― 」
「俺は、誰かに必要とされる人間になりたいっ!」
「!?…」
「た、例えば、あんたみたいな、勝気(しょうき)があんのに何か抜けてて、ほっとけんような人の、とかって…変か…?」
言ってから、ヒビキは顔を赤くし俯いた。お、イイ表情してやがる。
俺の言葉を遮り、必死に喉から絞り出した言葉は、掛け値なしのヤツの本心だろう。
「ほんじゃあ、約束だ」
俺はニヤリと笑った。
「…?」
「俺が武士になったら、お前を必要としてやる。迎えに来っから、それまでイイ子で待ってな。家に帰る、飯を食う、身体を鍛える、それと ―― 」
「…」
「つるむんなら同年のガキと、だ。出来るか?」
「…」
「自分の居場所は自分で作るもんだ、って言いてえとこだがな、お前みてえなガキには未だ酷だ。もし待つのに痺れ切らしちまったら、こいつ持って、江戸まで俺をたよりな」
懐に仕舞いこんだまま売りそびれた、最後の一つの薬袋をヒビキの手に握らせる。
手の中の薬袋をじっと見、齢相応の無防備さで、俺の顔を見、それを交互に繰り返す。
「ん?俺の言うこと、信じられんか?」
「…」
ヒビキは首がちぎれんばかりに、ブンブンと首を横に振り、こう答えた。
「だって、武士に二言は無いんやろ、兄さん」
終