・番外 桜その一の三へ二/六 しかし幸か不幸か、何も起こる気配はない。
「…やれやれ、と…!?」
奴等の姿が雑踏の中へ消えるのを充分に見計らい、身を起こし行李に向き直ると、そのガキは既に行李の外へ出ていた。自分が草の上にばら撒いた薬袋の一つを手に取り、
「何や、これ?『石田散薬』て…おっさんがこしらえたんか?」
何だ、このガキ、字が読めるのか…って、そんな場合じゃねえだろ。
俺はガキの手から薬をひったくると、野良猫を扱う要領で首根っこを引っ掴んだ。痩せたこのガキは恐ろしく軽く、華奢な足は難無く地面から離れる。
「おいっ、俺から盗んだ財布は何処へやったんだ?」
「!?何や、ちょ…」
ガキがイキのいい魚みたいに手足をばたつかせて暴れるもんだから、気を抜くと取り落としそうになる。往生際の悪いヤツだぜ、ったく。
「このっ!放せやっ!放さんと承知せえへんでっ!」
へっ、そのリーチでここまで届くかよ。
「大方、さっきの連中からも何か掏り取ったんだろうが。このまま奉行所へしょっ引いても構わんのだぜ」
「!?あ…堪忍や、財布なら返すわ、この通り、ほれ」
奉行所の一言が効いたようで、急に殊勝になったガキは懐から財布を差し出す。俺は黙ってそいつを受け取ると、漸く襟首から手を放した。
もうちっと粘るかと思ったが、案外早く降参したな、ったく。面倒かけやがって。
「!?わっ…イテテ…何も落っことすことないやんか…それにしたって、全然入ってなかったなあ、財布ん中」
うるさい。俺はガキを無視して薬袋を拾い集め始めた。あーあ、こうして改めて見ると、何てまあ無計画に仰山、こしらえてくれたんだかなあ、あいつらは。あの純朴さ、勤勉さは凶器だぜ、ここまでくると。
「なあ、おっさん、東国の人やろ?」
おっさんはやめろ。老けてんだよ、悪かったな。早くどっか行きやがれ。
「その薬、売りにここまで来たんと違う?全部売り切らな困るんやろ?帰りの路銀も捻出せなならんしな?」
無視々々。頼むから、んな犬コロみたいな黒目がちの瞳で擦り寄るなよ。
「俺が全部、捌いたろか?」
―― 何?
俺は薬を拾う手を止め、ガキを見た。
「お前が?」
―― どっから見ても、単なる小汚ねえ浮浪児じゃねえか。
そんな俺の心中を読み取ったかのように、そいつはふふん、と笑った。子供らしくねえ、挑発と慇懃を取り混ぜたような複雑な笑みだ。大人の庇護下では、まず身に付かんだろう表情。しかも背丈は俺の半分もねえだろうに、やたらに存在感がありやがる。俺と対等に渡ろうと背伸びしてるんじゃねえ、実際、そいつの気は、俺が世話んなってる剣術道場の大方の連中では、太刀打ちできねえぐらいの凄味があった。
「こんな薄汚ねえガキに何ができるかて思てるやろ。まあ無理もないけどな。けど、俺の話聞いてから判断しても遅くないんやないの、兄さん。このままやったら、多分一生捌けへんで、この薬の山」
「…」
「もし、この町のこと、何も知らんで東国と同じように売り歩こう思てんなら、それこそ時間の無駄やで。ここは東国やない、他所モンが商うんに常套手段が通用する筈ないやろ。どないボロい戦仕掛けるんにも、敵の情報くらいは仕入れんとな、話にならんて」
そう言って、勝手に残りの薬を拾いにかかる。
「…」
確かに。理はある。
右も左も分からん土地を、盲滅法歩き回ったところで、利益は知れてるだろう。
しかも、五日連続野宿した後で、こんなクソ生意気なガキの言葉に乗ってしまえるほど、俺は疲れてもいた。
俺が何も言わないのを承諾と捉えたのか、そいつは、ほな、うちに案内するわ、と小さな背には大き過ぎる行李を軽々と背に担いだ。後ろから見ると、まるで行李に足が生えてヒョコヒョコ歩いているようだ。
「…おい、お前、名前は?」
―― そいつは足を止め、息も止め、宙に視線を彷徨わせ、やがて見えない文字を読み上げるように、小さく唱えた。
「…ヒビキ」