一/五 新選組屯所内監察部屋。
ここは、隊における諜報活動 ―― 外部探査及び内部調査 ―― の一切を受け持つ監察方の拠点、管制塔であり、情報の集積基地でもある。よって、詰所としての機能のみを求められる一般隊士の大部屋とは、自ずと設(しつら)いが異なる。部屋の半分に個々人の書き机が並び、残り半分には人の背丈程の書棚が整然と列を成し、続き間の納戸は仮眠室の任を宛がわれ…と至る所無駄なく、閉塞感と機能性が凌ぎを削る室内。畢竟(ひっきょう)、家具調度の見当たらない、広々とした空間に慣れている隊士達の眼に、そこは秘境、異次元への入口と映り、殆どの者は足を踏み入れたがらない。しかも、その秘境の住人の舌先三寸で明日の我が身何処(いずこ)、首が飛ぶか腹を割るかの事態を覚悟させられるとすれば、好き好んで連中に関わろうという輩は、圧倒的に絞られる。現時点、監察方以外の人間で、この部屋に出入りする人間 ―― つまりは無類の物好き、怖いもの知らず ―― は二人しかいない。一人は言わずもがな、連中の元締である土方であり、もう一人は斎藤である。
こんちは、今日は冷えるね、と斎藤は屈託なく監察部屋の敷居を跨ぐと、そのまま火鉢の上に屈み込んだ。ある晩秋の昼下がり、本日の内勤担当は島田、吉村及び河野の三名である。
「おや、斎藤の旦那、久し振り。御無沙汰やね、何処ぞで浮気でもしてたんかな」
机上の書類から顔を上げ、ひょいと片眉を吊り上げたのは河野。
「寂しい思いをさせちまいましたかね」
背を丸め、両手を擦り炙りながら、斎藤も戯(ざ)れて答えた。つい先程まで戸外を出歩いていたと思しき顔色に、少しく血の気が戻り始める。
「 ―― 何、今日は随分賑やかだね」
斎藤が知る限り、通常、監察部屋で待機している内勤は大概一人、多くて二人だ。洛中で各監察が掴んだ情報を逸早(いちはや)く共有化して探査業務の効率を上げ、また、不測の事態に備える為にも、なるべく屯所には待機要員を確保しておく旨を基本としているらしい。が、如何せん人員不足のようで、やはり多忙時には総掛かりで探索に当たらざるを得ず、全員が出払ってしまう場合も多い。
「ああ?まあ、そうなんかな」
「あんた方が忙しくないとは、平和な証拠だね」
「平和て…旦那の口から聞くと、何や白々しいなあ」
そうかなあ、と斎藤、首を傾げながら火鉢に掛かる鉄瓶に水を注ぎ足す。
「天下泰平、全てこの世は事も無し、やったら、旦那も私も商売上がったり。お侍稼業、切った張ったで食い扶持稼げるのは、こんな御時世やからこそでね」
調子を付け、からりと言い放つが河野史郎、元々侍ではない。数少ない堅気からの転職組で、元が座付の『からくり師』という異色の経歴を持つ。剣の他、棒を上手(よ)く遣う。
入隊の経緯は不明で、何でも大阪出張から帰還した土方がふらりと連れて来るなり、あんたにやるよ、と手土産宜しく島田に押し付けて行ったという話だ。その折、土方に見込まれたのなら間違いはないだろうが、念の為、腕前の方を検分しては貰えまいか、と斎藤は島田に頼まれ、道場で一度立ち合った記憶がある。三本勝負で、結果は斎藤が二本先取。残り一本は入隊の御祝儀として河野に譲り、特に眼を引く展開は無く、至って型通り。実力は中の上、自分の身を守り、他人の足を引っ張らない程度には充分遣える、とその場で見積もった。
が、同時に斎藤は、河野が賞金稼ぎ、つまり暗殺のプロであることを本能的に見抜いている。後日、それとなく見立ての残りを島田に伝えたところ、意外にも島田は薄々気付いていたらしく、何も言わず首を横に振っただけであった。あんたは関わらない方がいい、という意味だろう。この最古参の監察は毎度の事ながら、土方の気紛れに振り回されるのも仕事の内、と観念しているようだ。以来、二人の間で河野の件が持ち出される事は無かった。
さて一方、書棚の資料をチェックしつつ、斎藤と河野の腑抜けた遣り取りを背中で聞いていた吉村は、湧き上がる笑いを噛み殺すのに必死だ。
「 ―― ?吉村さん、そんなに可笑しいですかね」
小刻みに震える吉村の背に、斎藤は半ば呆れて声を掛ける。
「…だ、だって二人共、全く他人事みたいに言ってるから…何か、妙に受けてしまいましたよ…ご、御免なさい、御詫びに今、お茶を淹(い)れますね」
今日、遊びに来てくれて良かった。丁度、頂き物の塩饅頭があるんです。あれならそんなに甘くないから、きっと斎藤さんも食べられると思いますよ。
嬉しそうに吉村が作業を中断しようとするのへ、
「ああ、いいですよ、俺が淹れましょう」
斎藤は気軽く立ち上がると、鼻歌交じりに小箪笥を開け、茶の仕度に掛かる。
「じゃあ、お願いします」
恐縮するでもなく、素直に斎藤の好意を受け、吉村は自分の仕事に戻った。
吉村に限らず、この部屋の住人は総じて、曲がりなりにも幹部、小隊長である斎藤を特別扱いしない。機構上、下は平隊士から上は局長までをも引っ括めて取り締まる、階級を度外した第三者的な部署であることも無関係ではないが、何よりも斎藤の拘りない、飄々とした気質に因るところが大きい。
さて、斎藤本人と言えば、この場に居て彼等と他愛無い言葉を交わす一時(ひととき)に、常に無い居心地の良さを感じている。無論、沖田や永倉、原田等の気の置けない連中と過ごす時間も、楽しいし居心地良いに違いはないが、心の何処かに後ろめたさのようなものが付き纏う。お前は一体、誰の許しを得て陽の当たる場所を歩いているのか、と耳元で責め囁く正体不明の声、過去の亡霊は、時に斎藤を居た堪(たま)れなくさせた。その昔、亡霊の存在を抹殺しようと躍起になっていた時期もあったが、今では諦め、身の内に抱えたまま共に生き、共に死ぬことに決めている。只、闇の空気を吸いつけている監察方が相手だと、自身のみならず、取り憑いた亡霊毎受け入れてくれる、そんな甘い夢幻を心に描けた。
―― でもまあ、結局のところ、人種柄、水が合うんだろうな。茶葉を蒸らす間、盆に並べた四つの湯呑を順繰りに湯で温めながら、ぼんやりと思う。と、何時しか、仕事の手を休めた三人が持ち場を離れ、座布団持参で火鉢の周りに寄り集まっており、斎藤は慌てて茶を振舞った。
「有難うございます」
日溜りを擬人化したようなほっこりした笑顔を浮かべ、吉村貫一郎は湯呑を受け取る。 ―― 人の気質を表現するのに、吉村程、『善人』という表看板が似合う男も又、珍しい。陰謀蔓延(はびこ)る情報の坩堝(るつぼ)、隊内外に発生する悪評、怨恨吹き溜まる監察方の汚染土壌に在って、まさに泥中の蓮の如き存在、これが斎藤の受ける印象だ。温和で思慮深く、沖田から毒気を差し引き、苦労を上乗せしたような雰囲気だが、剣筋は寧ろ永倉に似ている。
沖田や斎藤のような天才肌の振るう剣は唯一無二、誰にも真似出来ない一種の芸術だ。が、一方で、天賦の才に恵まれない不運を味方に付けた、吉村や永倉のような剣士のみが到達する境地もまた、存在し得る。彼等の持つ強さは、長の年月、打ち鍛えられ研ぎ澄まされた分、刃に狂いが無く、運に左右され難い。誤魔化しの利かない、斎藤が最も苦手とするタイプの遣い手である。
さて、そんな善意の塊に、はい、どうぞ、と塩饅頭の箱を差し出されて、小心者の斎藤が素気無(すげな)く断れる筈もない。
「大丈夫、斎藤さん程の甘味下手でも、これは美味しい筈です。騙されたと思って食べてみて下さい」
「…」
何が大丈夫なんだろう、騙されるのは嫌だなあ、とは口にせず、斎藤はちらと横目で島田と河野を窺う。が、二人共、わざと視線を明後日の方向へ泳がせつつ、既に饅頭の何個目かを賞味している最中で、助けを求める隙を与えてくれない。
「…はあ」
気圧される斎藤が折箱の中を見る限り、それは何の変哲もない、赤子の拳(こぶし)程の小さな白い塊であり、苦手とし、極力避けて通る饅頭一般の外見と変わりない。 ―― そもそも、塩饅頭と饅頭の違いは何なのか。『塩』が頭に付くからには、塩辛い饅頭なのか、それなら甘くない時点で最早『饅頭』とは呼ばないんじゃないか、大体、饅頭の定義って何なんだろう ―― 等々、底の浅い無意味な葛藤がぐるぐると頭を過ぎるものの、肝心の吉村から逃れる術が思い浮かばない。
「…」
斎藤は仕方なく覚悟を決め、饅頭を一つ摘(つま)むと、えいやと丸ごと口に入れた。
「 ―― どうですか?」
吉村は息を詰め、じっと斎藤の感想を待つ。併せて島田と河野も茶を啜りつつ、咀嚼する斎藤の表情を興味半分、心配半分で見守っている。そして。
「…ギブアップです」
―― 饅頭を飲み下して直後に洩れる斎藤の呻きに、やっぱりなあ、と二人は同時に息を付いた。